人と歴史

鐘紡における中興の祖ー実業家 武藤山治

戦前、繊維産業はかつての鉄鋼、および現在の自動車と共に基幹産業であった。鐘淵紡績株式会社(以下鐘紡)の中興の祖といわれた武藤山治が支配人・社長を務めた明治から昭和初期にかけて、日本の産業界で最も国際競争力のあったのが紡績業であった。 武藤山治は、慶応3(1867)年に美濃国安八郡(現在の岐阜県海津市)で、父・佐久間国三郎、母・たねの長男として生まれた。慶應義塾において福沢諭吉の下で学び、卒業後はアメリカへ留学した。帰国後、武藤に改姓。三井銀行などを経て、明治27(1894)年に鐘紡へ入社、兵庫支店の支配人となる。大正10(1921)年、社長に就任した。新しい経営手法を取り入れ、日本有数の企業に育てた手腕はよく知られている。

牧草と花壇で名を馳せたー農園創設者小川 二郎

190万人都市・札幌で市民が気軽に憩える場所として挙げるとすれば真っ先に大通公園になるであろう。北海道が春らしくなる5月上旬から秋口まで、大通公園は緑の芝生に噴水、そして花壇に咲く奇麗な花々が訪れる者の目を楽しませてくれる。元来、この大通りは明治の開拓使の頃、市内の火事拡大を防ぐ防火線としての役割が一番の目的であった。その大通公園に初めて本格的な花壇をつくったのが小川二郎だった。明治40(1907)年、小川は札幌区議会(現在の市議会)に働き掛け2丁目から4丁目を自費を投じて耕し、花の苗を植えていった。

【仏教哲学者 井上円了】妖怪学で「心の近代化」を

明治20年ごろ、日本中に「こっくりさん」が蔓延した。これを調査し、実験によって解明したのが井上円了である。 越後の浄土真宗の寺に生まれた円了は、東京大学で西洋哲学を学び、東洋大学の前身「哲学館」を創設。さらに講演で庶民の啓蒙に尽力しながら、妖怪や怪奇現象などの解明に奔走した。日本人の「心の近代化」を目指し、自立した個人を育てるためである。

【南画家 直原 玉青】絵修業のため黄檗宗の禅僧に

洲本市立淡路文化史料館は江戸時代、徳島藩の御殿があった場所に造られ、史料館前の石垣と堀の一部が往時の面影を残している。同史料館には、国指定無形民俗文化財の淡路人形浄瑠璃やだんじりなどの民俗文化、有史以前の恐竜の化石や縄文時代から弥生時代の資料が展示され、南画の巨匠で幼少年時代を洲本で過ごした直原玉青画伯の記念美術館が併設されている。

鈴木大拙を支えた、実業家「安宅彌吉」

世界的な仏教哲学者の鈴木大拙(1870〜1966)を経済的に支え続けたのが、実業家の安宅彌吉(1873〜1949)だった。2人は共に金沢出身で、彌吉は大拙より3歳年下だが、大拙には力強い外護者でもあった。彌吉没後も遺言のように、安宅産業からの支援は続いた。大拙のために尽くした人たちは多かったが、名声が世に知られてからがほとんどだった。ところが彌吉は、彼らとは別格で20代の無名の頃から大拙を支援し続けてきた。こんなエピソードが伝わる。 2人の親交は上京してから始まり、加賀藩前田家が、県出身の学生のために開いた寄宿舎久徴館の入寮がきっかけだった。彌吉を禅に導いたのは大拙で、共に鎌倉の円覚寺に参禅し、彌吉はその後、関西に拠点を置き、南天棒の元で修行した。

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