家康を読む

浜松城の隣に「出世神社」

一向一揆を制圧することで三河東部も従え、家康は実質的に三河全体を統治する戦国大名になります。  その後、29歳の時に遠江国の浜松城を修復し、17年間城主として三河・遠江・駿河を領有する大大名に出世します。  浜松城の前身は15世紀ごろに築城された曳馬城で、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。

家臣団が分裂した三河一向一揆

豊臣秀吉が家康に対し、天下の宝といわれるものの大半を集めたのを自慢して、家康の宝は何かと聞いた時、家康が 「家臣が最高の宝」で「貧しい田舎武士の集まりだが、私のために命を捨ててくれる武将が500騎いる」と答えたのは有名な話です。  それほど家臣団の結束を誇った家康ですが、その家臣団が分裂してしまったのが20歳すぎで直面した一向一揆でした。

情操と教養を育てた禅宗

静岡市清水区興津にある臨済宗妙心寺派の清見寺(せいけんじ)に、竹千代時代の家康が太原雪斎(たいげんせっさい)禅師らから学んだ3畳間があります。禅僧ながら今川家の家臣で、今川義元の軍師として内政・外交・軍事に敏腕を発揮し、今川家の全盛期を築き上げた人です。人質ながら義元の後継者の一人として育てられた竹千代は、当時、最高の教育を受け、そこで培った情操と教養、つまり人間力が家康の人生を支えました。

神となって日光から江戸を守る

 東京から北東に約2時間の日光は、日本を代表する観光地として外国人にも人気の世界遺産です。その中心にある日光東照宮は、死後、東照大権現という神になった徳川家康を祭る神社で、家康のお墓は東照宮の本殿の裏にある奥宮にあります。

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