サンデー編集部

東京で頑張ってます!

 日本でアナログレコードの復権を目指す高橋邦明さん(55)。現在、大手音楽事務所キングレコードのグループ会社キング関口スタジオで二十数年前に廃棄されたアナログレコードの録音機材(カッティングマシン)を復活させ、再びアナログレコードの量産を目指している。

旨辛! マーボー干しナス

【材料】 (2~3人分、調理時間:10分) ミニトマト・・・・・・・・6 個 合挽肉・・・・・・・・・100g 白ネギ・・・・・・・・・・1 本 ニラ・・・・・・・・・・・1 束 生姜・・・・・・・・・1 / 4 片 ニンニク・・・・・・・・・1 片 豆板醤・・・・・・・小さじ1 ごま油・・・・大さじ1 × 2

母親は家庭の中の太陽

 石川県羽咋(はくい)市を流れる羽咋川の畔ほとりに、宗教法人大霊(たいれい)道の本部が立っている。道主の山本恵光さん(78)は「お母さんは家庭の中の太陽です。母としての務めは楽ではありませんが、日々感謝の気持ちを育てながら頑張ってほしいですね」と語る。

《14》信州善光寺

秘仏と縁を結ぶたび  JR長野駅発のバスから窓の外に目をやると、石畳の道路や蔵を模した建物など、門前町の長い歴史を感じさせる街並みが続く。    バスが向かう国宝・信州善光寺は「遠くとも一度は詣れ善光寺」と詠われるほど、宗派に関わりなく庶民から愛されてきた寺院。本堂は高さ30m、奥行き54mの壮大な伽藍を誇る。    バスを降りると、平日にも関わらず境内はにぎわっていた。御朱印所の窓口前に並ぶ行列、本堂を背景に撮影する新婚らしきカップル、東南アジアから来たと思われる僧衣の男性など、さまざまな人の姿を見かける。改めて国内外からの人気の高さを感じさせる光景だ。    本堂前にたたずむ山門の壁や柱には、江戸時代などの参詣者たちが書き記した名前や出身地がところ狭しと残されている。実際にお参りした人の名前もあれば、知り合いから「私の名前も書いてきてくれ」と頼まれた名前もあるそうだ。この“落書き”も今では立派な歴史的資料の一つなのだから面白い。    善光寺の歴史は古い。阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩(せいしぼさつ)の三尊からなる本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、『善光寺縁起』によると飛鳥時代、欽明天皇のころに百済から贈られた日本最古の仏像だという。数え年で7年に1度には、本尊を模した国の重要文化財「前立本尊」を公開する「御開帳」が行われている。    直かに拝観することはできない御本尊だが、実はあることをすれば、その秘仏と「結縁」を結べるのだという。本尊を安置した瑠璃壇(るりだん)の下の回廊を進む「お戒壇めぐり」だ。回廊の中ほどにある「極楽の錠前」を見つけて触ると、往生後の極楽浄土行きが約束されるという。ただし、回廊は真っ暗で明かりの類は何もなく、手探りで25~30cmの錠前を探さねばならない。  瑠璃壇の下に続く階段を下りて、「いざ出発!」と意気込んだのはいいが、予想外の暗さに面食らってしまった。壁から手を放してしまうと、距離感も方向感覚も分からず、闇の世界に一人取り残されてしまいそうだ。    何も見えない不安から、だんだん身をかがめて恐る恐る進むようになる。  そして、はっと気付くと出口がすぐ目の前に。どうやら身をかが め過ぎて触り損ねたらしい。いやはや修行不足。それにしても、なぜわざわざ暗闇の中を歩くのだろう。近くにいた善光寺のスタッフに尋ねてみると「暗闇の中で心を静めて心を洗い、そうして仏様に 出会うためです」とのこと。  そういうわけで戒壇めぐりに再びチャレンジするのだった。   (「昇龍道」取材班)

魚取れんでも川が楽しい

長良川の鵜飼(うかい)は、岐阜県の夏の夜を彩る幻想的な風物詩だ。船頭が焚いたた松明(たいまつ)の火に集まったアユを、鵜が潜って捕まえる。1300年以上もの歴史を持つ鵜飼は、織田信長の時代に保護され、明治時代に入ると岩倉具視によって宮内庁傘下に組み入れられた。鵜が二十数羽、自由に行き交う庭には、常に寄り添うように鵜匠(うしょう)・山下純司さんがいる。

サラダ冷や奴

【材 料】 < 2 人分 調理時間:10 分> 絹豆腐・・・・・・・・・・・1 丁 ちりめんじゃこ・・・・・・40g ミックスリーフ・・・・・・適量 ミニトマト・・・・・・・・2 個 アスパラ・・・・・・・・・・2 本 キュウリ・・・・・・・・・・1 本 大葉・・・・・・・・・・・・2 枚 <甘辛醤油>

保存に奔走した地域の人々

松本城  曇りの予報だったが見事に外れた。目的地に向かって歩く途中も小雨が止 やむ様子はなく、観光客がいるかどうか不安に駆られた。取りあえず着いてみると、幸いなことに傘を差した外国人の姿がちらほら見受けられた。今回のお目当ては長野県松本市の松本城だ。  ベンチで城を見詰める年配の男性に話し掛けると、得意げに「あれを上から下まで全部、昔の人が自分の手で造ったんだよ」と自慢された。市民から「烏城」の名前で愛される黒い天守閣は、美しく悠然とそびえ立っていた。一面に水をたたえた内堀とその岸沿いに植えられた枝垂れ柳、そして堀の上に架けられた赤い橋・埋橋(うずみばし)とともに眺めると、なんとも言えない趣がある。思わず、戦いのために造られた城であることを忘れてしまうほどだ。    戦国時代に信濃守護だった小笠原氏が拠点となる城を築城した際、その支城として築かれたものの一つが、松本城の前身とされる。分厚い壁や城内から射撃するための「鉄砲狭間ざま(ざま)」など、鉄砲戦への備えが戦国時代へタイムスリップさせる。五重の天守は現存するものの中では最古で、1936年(昭和11年)には国宝に指定された。     中に入ってひときわ目を引くのが、コレクターによって寄贈された141の鉄砲とその関連資料の展示だ。鉄砲の造り方や使用方法のほか、麻糸で複数の弾をつなげた変わり弾など珍しい品々も紹介されており、訪れた外国人や家族連れが熱心に見詰めていた。     天守の最上階に上がると、城の守り神である「二十六夜神」が真上に祀(まつ)られていた。松本城には不思議な伝説が残されている。一人の侍が殿中で宿直をしていたところ、突然美しい姫君が現れ、「26日夜の日に米三石三斗三升三合を炊いて祝うこと。お城は必ず栄えようぞ」と告げて消えた。 侍は家老を通じて藩主に報告し、言われた通りの祭祀(さいし)をすることとなった。その後、城で火事が起きたものの天守は焼け落ちず無事だった。この不思議な姫君のおかげだという。  だが、この城を襲った一番の災難は、武家の時代が終わった明治時代に起きた。廃藩置県後、不要となった城の荒廃が著しく、破壊・売却の危機に陥った。それを憂えた城下町生まれの市川量造は天守と本丸広場を中心とした博覧会を企画し、その収入によって天守を買い戻した。さらに松本中学校の小林有也校長らが1901年(明治34年)に松本天守閣保存会を設立。11年間の歳月をかけて修繕工事を行い、倒壊の危機から救った。城を愛し奔走した市民の努力がなければ、この城は今の姿を保っていたか怪しい。    松本城は幾つもの困難を乗り越え、今も多くの市民にとっての誇りになっている。姫君のご加護もまだ続いているのかもしれない。 (「昇龍道」取材班)

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