カルチャー

妻籠宿

観光立国への新ルート 昇龍道を行く 情緒あふれる「サムライロード」  中山道・馬籠宿の隣にある妻籠(つまご)宿(長野県木曽郡南木曽町)は、歴史的景観を守るべく、全国で初めて古い町並みを保存した宿場町だ。こちらにも多くの外国人が訪れていると聞き、さっそく観光案内所のスタッフに道を尋ねると、「馬籠宿から妻籠宿までは早くて2時間半くらいですね」と言われた。どうやら「歩くこと」が前提らしい。    この地域を訪れる外国人観光客は雨が降ろうと雪が降ろうと構わず歩いていくのだという。彼らは自ら歩く道を「サムライロード」と呼び、江戸時代の人々と同じ道を通ることを楽しんでいる。ただ残念なことに、サムライロードに日本人の姿はあまりないそうだ。    中山道の魅力をより知るためには、やはりここはバスではなく歩かなければなるまい。意を決し朝早く出発。ほとんどは舗装された道路だったが、所々山道に入る所もあった。時々、熊よけの鈴が山中の道端に置いてあり、見つけるたびドキッとさせられる。道の半ばにあった江戸中期の茶屋『一石栃立場茶((いちこくとちたてばちゃや)屋』の中でお茶を一服し、先を目指した。    3時間近くかかってたどり着いた妻籠宿の町並みを眺めると、ノスタルジックな気分がこみ上げてくる。町を歩くと、切支丹禁令や百姓一揆の禁止などが書かれた高札を発見した。江戸時代の情緒が色濃く残され、一瞬タイムスリップしたような気分になる。    妻籠宿本陣と脇本陣は現在、南木曽町博物館になっているので、見学してみることにした。本陣は江戸後期の間取図を元に忠実に復元したもので、島崎藤村の兄でもある広助が最後の当主を務めた。豪壮な姿と共に、藤村関係の資料も展示されている。    国重要文化財でもある脇本陣の方は明治10年に建て替えられたもの。江戸時代、山の木は「木一本首一つ」と言われるほど厳しく管理されていたが、明治になって禁制が解けたため、桧の大木をふんだんに使用している。明治13年の明治天皇巡幸の際も御小休所として利用された建物だ。    脇本陣を見学中、夫婦らしき外国人の観光客がいたので、写真を撮ってもいいか尋ねると、快くOKしてくれた。博物館スタッフが英語で囲炉裏など日本の伝統的な家屋の説明をすると興味津々に聞いていたのが印象的だった。    妻籠宿で民宿をしている人の話によると、宿泊する外国人と日本人の割合は町全体で9対1の割合だという。基本的に欧米豪からの観光客が多いが、最近はシンガポールからやって来る人もいるようだ。 (「昇龍道」取材班)

「夜明け前」舞台の宿場町

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《19》馬籠宿 「木曾路はすべて山の中である」  文豪・島崎藤村の名作「夜明け前」冒頭の一節だ。小説の舞台で、藤村のふるさとでもある岐阜県中津川市の馬籠宿は、山々に囲まれた中山道(木曾路)の中途にあり、板橋から数えると43番目の宿場になる。  中山道は江戸時代初期に整備された五街道の一つ。江戸と京都とを結ぶ重要な街道だが、険しい山中の道のりは難所として知られた。そのため、捨てられたり置いて行かれる馬も多かったようで、観光案内所のスタッフによると「それが『馬籠』という名前の由来になったという説もあるくらい」だという。    馬籠宿前のバス停を降りると、目の前に山の尾根に沿うような急斜面の道が続いていた。夏休みの休日ということもあって道行く人は家族連れが目立つが、外国人観光客の姿も多い。江戸時代の情緒を色濃く残す馬籠宿は外国の人々からも好評で、通りにある家や軒先につるされた飾りを珍しげに眺めていた。  石畳を敷き詰めた道沿いには民宿のほか、かき氷などの甘味処やそば屋が並んでいる。暑い日差しが照り付ける中では、頭で考えるより先に足が店先へと向いてしまいそうになる。険しい山道を越えてきた昔の旅人も同じような気持ちになったのだろうかと思う。    旅人だけではなく、かつては諸大名など地位のある人々もこの道を通って行った。幕末の第14代将軍・徳川家茂に嫁いだ和宮もその一人。彼らが泊まる宿は本陣・脇本陣と呼ばれていた。     「馬籠脇本陣史料館」では脇本陣の家に伝わる遺品や古文書などを展示し、過ぎし日の雰囲気を見学者へと伝えている。目玉展示の一つは復元された「上段の間」。朝廷・幕府の高位高官用の部屋で、ほかの部屋より床が一段高く造られている。守りが手薄な北側は敵の襲来を防ぐため、亀甲型の石を積み上げた「玄武石垣」を築くなど、徹底された安全対策が施されているのも特徴だ。  馬籠宿の本陣は藤村の実家で、明治28年の大火によってほとんど焼失してしまい、唯一現存するのは藤村の祖父母の隠居所のみ。藤村は少年時代にここで四書五経を学んでおり、「夜明け前」や童話集にも登場する思い出の場所だ。本陣跡に建てられた「藤村記念館」や記念館近くにある「清水屋資料館」 には、自筆の原稿や手紙などゆかりの品々が数多く展示されている。 (「昇龍道」取材班)

浜名湖

観光立国への新ルート 昇龍道を行く≪18≫ ~東名高速の下くぐる遊覧船~ 「はままつフラワーパーク」を一周するフラワートレイン  静岡県浜松市の観光名所の一つ浜名湖。最大水深は約16m、広さ約65平方㎞と面積では日本で10番目の湖だ。言い伝えによるとその昔、伝説の巨人・ダイダラボッチが転んで地面に大きな手の跡がついた。そこに水が溜た まり、今の浜名湖になったのだという。確かに湖全体を見ると、どことなく手を広げたような形をしている。  湖岸を歩いてみると、思っていたよりも磯の香りが強い。浜名湖が淡水と海水の混じる汽水湖であるためだ。元は淡水湖だったが、1498年の大地震と高潮で海と通じるようになった。スッポンやカキ、トラフグなどが名物で、特に浜名湖のウナギは全国的に有名だ。     歩いていると遊覧船乗り場を見つけたので乗ってみることにした。まだ少し時間に余裕があったので、チケット売り場の男性職員に見どころを尋ねてみると「船で東名高速道路の下をくぐるのは、めったにできない体験ですよ。冬なら渡り鳥もいますし、季節ごとに違う味わいを楽しめます」と教えてくれた。  乗り込んだのは250人乗りの大型船・奥浜名丸。夏休み中とあって船内は子供連れが多く、船が動きだすと子供たちはみな目を輝かせながら窓の外を見詰めていた。展望デッキでは乗船客たちが美しい湖上の風景を楽しんでいた。西行法師が瞑めいそう想にふけったと伝えられる岩を通り過ぎたり、東名高速道路の下をくぐる時などはカメラを構え記念撮影に夢中になっていた。  水上からの眺めの次は、山上からの眺めを楽しむことにした。湖畔にある標高113mの大草山頂上までロープウエーで移動すると、山頂は周囲360度を見渡せる展望台になっていた。徳川家康が居城していた浜松城はもちろん、井伊直虎が出家していた龍潭寺など、浜松市のさまざまな歴史の面影を一望することができる。浜名湖を訪れた人にはぜひ一度見てもらいたい絶景だ。  帰りには湖の近くにある「はままつフラワーパーク」にも寄ってみた。水面に浮かぶハスの花などは見ているだけで心を涼しくさせてくれる。園内を周遊する「フラワートレイン」という乗り物もあるので、夏の暑さを気にせず園内の花を見て回れるのは魅力的だ。春の季節には桜の花を見るため、大勢の外国人が来るらしい。芝生や休憩スペースもあちこちにあるので、昼食を持ち込んでピクニック気分を味わってみるのもいいだろう。 (「昇龍道」取材班)

郡上八幡(下)

脚光を浴びる「天空の城」  山間の小盆地・郡上八幡に、日本文化の原型ともいうべき郡上おどりが400年にもわたり踊り続けられてきた背景には、郡上藩の後押しがあった。初代藩主、遠藤慶隆は、士農工商の融和を図るために、村々で踊られていた盆踊 りを城下に集め、「盆の4日間は身分の隔てなく無礼講で踊るがよい」と奨励、年ごとに盛んになったという。  藩主の居城、郡上八幡城は、市街から130㍍ほど上った城山にある。天守は昭和8年に再建された模擬天守だが、いまこの城が「天空の城」として脚光を浴びている。「天空の城」と言えば、「東洋のマチュピチュ」竹田城(兵庫県朝来市)が有名だが、郡上八幡城も、雲海の中に浮かぶ城。パンフレットの写真は、霧の中に白亜の天守が浮かび上がり、実に幽玄な趣を漂わせている。  この天空の城を観るための絶好のスポットが、郡上八幡から和田町に抜ける堀越峠。晩秋から冬にかけての、よく晴れた日の早朝がチャンスと言うが、気象条件が揃(そろ)わないと、なかなか見ることはできない。    記者が泊まった民宿からも城山は、すぐ近くに望むことができる。「朝、お城の周りに霧が出ていると、娘と朝食をたべながら、きょう来たお客さんはラッキーだねって言っているんです」とおかみさん。    その郡上八幡城に登った。前の晩、郡上おどりを観た城址公園に着くと、「山内一豊と妻の像」が立っていた。実は初代土佐藩主、山内一豊の賢夫人として知られる千代は、最初に郡上八幡城を築いた遠藤盛数の娘であるという説が有力だ。    ここからさらに、つづら折りの坂道を上って天守に辿たどり着く。展望台から町を見下ろすと、宿のおかみさんが言った通り、町は確かに魚の形をしていた。尾の向こうに見えるのは、東海北陸自動車道だ。    天守閣前の庭に、人柱となった「およし」を祀まつる小さなお堂があった。急斜面の工事が困難なのをみて、神路村の百姓吉兵衛の美しい一人娘およしが、城を守ろうと身を捧(ささげ)て人柱になり、地中に入った。その時、およしは数え17歳だったという。この話は、宿のおかみさんが学校で習った話として教えてくれた。    天守の上り口には、「赤髭作兵衛の力石」もある。城の改修の際、ひときわ力持ちとして知られる作兵衛という人夫がいて、350㌔もの大石を一人で背負って運んで、奉行に褒められたが、作兵衛は褒められて感激のあまり、その場で卒倒し絶命したという。  これも山上の城ゆえの困難にまつわる話である。その山上の城ゆえの美しさが、いま人々を引きつけている。 (「昇龍道」取材班)

《16》郡上八幡(上)

日本の原型残る「郡上おどり」  長良川鉄道沿線の観光地として近年ますます人気を集めているのが、水と盆踊りの町、郡上八幡(岐阜県)だ。長良川の支流・吉田川が街中を流れる山間の盆地にある城下町である。水と「郡上おどり」に引かれ、外国人観光客も急増していて、駅から乗ったタクシーの運転手は昨年でも10カ国ほどの外国人を乗せたと言う。  日本三大盆踊りの一つに数えられる「郡上おどり」は、7月の中旬から9月上旬まで約2カ月の間、延べ三十数夜にわたって繰り広げられる一大イベント。平成8年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。中でも旧盆の8月13日から16 日にかけての4日間は、夜を徹して踊り明かし、最高潮を迎える。  夕刻、吉田川沿いの民宿に到着。宿のおかみさんに今夜のおどりの会場を尋ねると、「城山公園です。ちょっと遠いですけど」と言いながら、地図で行き方を教えてくれた。    通常、市街の中心部で行われるが、この日は町を見下ろす郡上八幡城へ上る途中の公園が会場だった。すっかり暗くなった坂道に差し掛かると、浴衣姿の人たちがどんどん上っていくので、その後に付いて会場の公園に辿たどり着いた。    広場の真ん中に屋台がある。テントのコーナーも設けられ、保存会の人たちがグッズの販売なども行っている。ラジオ体操のようにカードにハンコを押 してもらっているので何かと聞くと、おどりに来た人に押しており、皆勤した人には記念品が贈られるのだという。おどりの推奨、保存のための工夫である。  午後8時、屋台のお囃はやし子が鳴りだした。いよいよおどりの始まりだ。  ~郡上の八幡出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼる  あそんでんせぇ~    郡上節の中でも最もポピュラーな「かわさき」の出だしだ。初めて聞いたが、何とも言えない懐かしさを覚える。遠い先祖たちの記憶が甦よみがえるのだろうか。  郡上おどりは、もちろん地元の人たちが支えているが、参加は自由。ひとたびおどりの輪に加われば誰にでも簡単に踊れるような振り付けが特徴だ。  踊り手は、それこそ老若男女、高齢の人も多いし、若い人も多い、そして子供たちも。おどりの輪の中には、観光客風の人も多く、夕暮れ町を歩いていた外国人観光客の姿もあった。    ゆったりしたものから始まり、「春駒」など徐々にテンポの速いものに替わっていく。踊り手も次第に増えてゆき熱を帯びてくる。みな無心におどりを楽しんでいる。    おどりはまだ続いていたが、明日の取材もあるので9時を過ぎて、宿に戻ることにした。郡上節が遠ざかってゆくのを聞きながら坂道を下った。坂道を歩きながら、こんな山間の小さな盆地に、日本の原型を思わせる文化が洗練された形で息づいていることが、何か奇跡のように思えてくるのだった。    (「昇龍道」取材班)

《15》美濃市

~長良川の恵み和紙と「うだつ」~  刀剣と鵜飼の町、関から長良川鉄道に乗って北へ10分ほどで、和紙と「うだつ」の町、美濃市に着く。古い街並みが残る中心部はそう広くないので、駅でレンタサイクルを借りた。    初めて乗る電動自転車にやや戸惑いながらも駅でもらった観光マップを観 ながら行くと、市観光の拠点、観光協会番屋に着く。その通りに「目の字通り」と呼ばれる、「うだつの上がる街並み」が続いている。街並みは「伝統的建造物群保存地区」に選定されている。  「うだつ」とは、屋根の両端にある防火壁のこと。火事の多かった江戸時代、町を守るために設けられたが、「うだつ」を上げるには、いっぱしの店を構えなければならない。ぱっとしないことを「うだつの上がらない」というのはここからきている。    うだつはその家ごとにさまざまなスタイルがあるが、江戸時代から続く酒屋、小坂家のうだつは国の重要文化財に指定されている。美濃市で最も古いうだつを上げているのが、旧今井家。江戸末期から続いた和紙問屋で、中に入って見学することができる(有料)。玄関の帳場から、豪商時代の繁栄をうかがわせる奥座敷へと続くが、自慢は中庭の「水琴窟」。地中に小さな穴を開けた甕 かめを逆さにして埋め、上に丸石を置く。水をこぼすと、穴から落ちた水が甕の中で反響し、琴のような涼やかな音がする仕掛けだ。環境庁の「日本 の音100選」にも選ばれている。柄杓(ひしゃく)で水をこぼすと、本当に涼しげな音が響いてきた。  目字通りには、和紙の店が多い。この美濃和紙を現代アートで盛り上げようと、毎年秋に催されているのが、「美濃和紙あかりアート展」。第26回となる今年は10月12、13日に開かれる。    旧今井家の近くに「美濃和紙あかりアート館」があり、魚などの具象的なものから抽象的なものまで、さまざまな作品が展示されている。和紙が作る柔らかで深みのある光の芸術だ。和紙の魅力を改めて感じさせてくれる。    美濃市の繁栄の礎は、江戸時代、飛騨3万石を治める金森長近が領主になってから築かれた。長近は、長良川端に上有知川湊(こうづちかわみなと)を開き、番船40艘そうを置き物流拠点とした。長良川端に立つ住吉灯台は、その湊の名残。川湊の灯台としては現存する希な建造物だ。    レンタサイクルをこいで5分ほどで住吉灯台に着いた。高さ8mはあるかと思われる木造の美しい灯台の下には、水量豊かな長良川が、滔々(とうとう)と流れていた。 (「昇龍道」取材班)

《14》信州善光寺

秘仏と縁を結ぶたび  JR長野駅発のバスから窓の外に目をやると、石畳の道路や蔵を模した建物など、門前町の長い歴史を感じさせる街並みが続く。    バスが向かう国宝・信州善光寺は「遠くとも一度は詣れ善光寺」と詠われるほど、宗派に関わりなく庶民から愛されてきた寺院。本堂は高さ30m、奥行き54mの壮大な伽藍を誇る。    バスを降りると、平日にも関わらず境内はにぎわっていた。御朱印所の窓口前に並ぶ行列、本堂を背景に撮影する新婚らしきカップル、東南アジアから来たと思われる僧衣の男性など、さまざまな人の姿を見かける。改めて国内外からの人気の高さを感じさせる光景だ。    本堂前にたたずむ山門の壁や柱には、江戸時代などの参詣者たちが書き記した名前や出身地がところ狭しと残されている。実際にお参りした人の名前もあれば、知り合いから「私の名前も書いてきてくれ」と頼まれた名前もあるそうだ。この“落書き”も今では立派な歴史的資料の一つなのだから面白い。    善光寺の歴史は古い。阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩(せいしぼさつ)の三尊からなる本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、『善光寺縁起』によると飛鳥時代、欽明天皇のころに百済から贈られた日本最古の仏像だという。数え年で7年に1度には、本尊を模した国の重要文化財「前立本尊」を公開する「御開帳」が行われている。    直かに拝観することはできない御本尊だが、実はあることをすれば、その秘仏と「結縁」を結べるのだという。本尊を安置した瑠璃壇(るりだん)の下の回廊を進む「お戒壇めぐり」だ。回廊の中ほどにある「極楽の錠前」を見つけて触ると、往生後の極楽浄土行きが約束されるという。ただし、回廊は真っ暗で明かりの類は何もなく、手探りで25~30cmの錠前を探さねばならない。  瑠璃壇の下に続く階段を下りて、「いざ出発!」と意気込んだのはいいが、予想外の暗さに面食らってしまった。壁から手を放してしまうと、距離感も方向感覚も分からず、闇の世界に一人取り残されてしまいそうだ。    何も見えない不安から、だんだん身をかがめて恐る恐る進むようになる。  そして、はっと気付くと出口がすぐ目の前に。どうやら身をかが め過ぎて触り損ねたらしい。いやはや修行不足。それにしても、なぜわざわざ暗闇の中を歩くのだろう。近くにいた善光寺のスタッフに尋ねてみると「暗闇の中で心を静めて心を洗い、そうして仏様に 出会うためです」とのこと。  そういうわけで戒壇めぐりに再びチャレンジするのだった。   (「昇龍道」取材班)

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