光秀がいく

鉄砲が変えた戦国時代の日本

ドラマでは光秀が鉄砲に興味を持ち、その構造や製法、使い方を学ぶ様子が描かれていました。美濃から越前に逃れ、朝倉義景に仕えるようになった光秀が認められたのも、一向一揆の鎮圧で鉄砲隊を効果的に使ったからだとされています。

美濃を制する者は天下を制する

戦国時代の小説によく出てくる「美濃を制するものは天下を制する」という言葉を語ったのは斎藤道三か織田信長と言われていますが、史料には見当たらないようです。有名になったのは、司馬遼太郎の『国盗り物語』で使われたからで、それなら道三のようですが、彼は美濃を支配する前に息子の義龍に討たれてしまいます。しかし、美濃の戦略的重要さを知っていたのは確かで、その夢は娘の帰蝶が嫁いだ織田信長によって実現されます。

信長討伐に至った恵林寺の焼き討ち

本能寺の変が起きた1582年6月21日の1カ月前、5月27日に、亀山城(亀岡市)から愛宕山(京都市右京区)の愛宕権現に参詣し、参籠した光秀は、同行した家臣や連歌師と連歌を詠み、奉納しています。愛宕大権現は戦の神である愛宕勝軍地蔵を祀まつる神社で、上杉謙信も深く信仰していました。

少年時代から「国盗り」斎藤道三の薫陶受ける

生誕地に加え光秀の父も、明智光綱、光国、光隆、頼明と諸説あり、大河ドラマは光綱説を採用しています。明智氏は清和源氏系の土岐氏の流れで、同氏は南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めた名門で、室町幕府の幕閣として、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3カ国の守護大名になっています。

日本一大きな位牌に光秀の供養祭

昨年6月8日、かつて明智荘があった岐阜県可児市の天龍寺で光秀の438回忌・供養祭が営まれました。本堂には、光秀の命日6月13日にちなみ6尺1寸3分(184㌢)という大きさの光秀の位牌が祀られており、日本一大きな位牌だとされています。

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