サンデー編集部

「掃除道」は日本人の生き方

~苦心の境地と周りへの気配り~ 八合目での法要 8月3日、令和初、第10回の節目となる今年の「聖徳太子銅像と富士山」は快晴に恵まれました。山梨県富士吉田市にある浄土真宗如来寺の門徒さんら31人で、朝6 時、お勤めをしてマイクロバスで富士山五合目へ。2列になって八合目を目指しました。

元受刑者たちを受け入れ

「僕は最後まで人を信じます。そして、最後まで自分がこの世に生きていたという証しを立てて逝きたい」7月19 日、北海道教育大学の講演会に招かれた北洋建設(本社:北海道札幌市)の小澤輝真社長(46)は、大学生を相手にこう語った。

ズッキーニチャンプルー

【材 料】 < 3 ~ 4 人分 調理時間:20 分> スパム・・・・・・・・・・200g 木綿豆腐・・・・・・・・・1 丁 ズッキーニ・・・・・・・・1 本 パプリカ赤黄色・・・・・1/ 2個 玉ネギ・・・・・・・・1 / 2 個 卵・・・・・・・・・・・・3 個

遊牧民への感謝を行動で

人生の半分をモンゴル取材にささげてきた男、清水哲朗さん。「まずは自分がモンゴル人にならないと、自然な写真が撮れない」と語る通り、遊牧民の日常に入り込んで風景や表情を捉えるのが、清水さんのスタイルだ。そのため1度や2度、客人として訪ねるのではなく、何度も通って同じものを食べ、力仕事も手伝う。

郡上八幡(下)

脚光を浴びる「天空の城」  山間の小盆地・郡上八幡に、日本文化の原型ともいうべき郡上おどりが400年にもわたり踊り続けられてきた背景には、郡上藩の後押しがあった。初代藩主、遠藤慶隆は、士農工商の融和を図るために、村々で踊られていた盆踊 りを城下に集め、「盆の4日間は身分の隔てなく無礼講で踊るがよい」と奨励、年ごとに盛んになったという。  藩主の居城、郡上八幡城は、市街から130㍍ほど上った城山にある。天守は昭和8年に再建された模擬天守だが、いまこの城が「天空の城」として脚光を浴びている。「天空の城」と言えば、「東洋のマチュピチュ」竹田城(兵庫県朝来市)が有名だが、郡上八幡城も、雲海の中に浮かぶ城。パンフレットの写真は、霧の中に白亜の天守が浮かび上がり、実に幽玄な趣を漂わせている。  この天空の城を観るための絶好のスポットが、郡上八幡から和田町に抜ける堀越峠。晩秋から冬にかけての、よく晴れた日の早朝がチャンスと言うが、気象条件が揃(そろ)わないと、なかなか見ることはできない。    記者が泊まった民宿からも城山は、すぐ近くに望むことができる。「朝、お城の周りに霧が出ていると、娘と朝食をたべながら、きょう来たお客さんはラッキーだねって言っているんです」とおかみさん。    その郡上八幡城に登った。前の晩、郡上おどりを観た城址公園に着くと、「山内一豊と妻の像」が立っていた。実は初代土佐藩主、山内一豊の賢夫人として知られる千代は、最初に郡上八幡城を築いた遠藤盛数の娘であるという説が有力だ。    ここからさらに、つづら折りの坂道を上って天守に辿たどり着く。展望台から町を見下ろすと、宿のおかみさんが言った通り、町は確かに魚の形をしていた。尾の向こうに見えるのは、東海北陸自動車道だ。    天守閣前の庭に、人柱となった「およし」を祀まつる小さなお堂があった。急斜面の工事が困難なのをみて、神路村の百姓吉兵衛の美しい一人娘およしが、城を守ろうと身を捧(ささげ)て人柱になり、地中に入った。その時、およしは数え17歳だったという。この話は、宿のおかみさんが学校で習った話として教えてくれた。    天守の上り口には、「赤髭作兵衛の力石」もある。城の改修の際、ひときわ力持ちとして知られる作兵衛という人夫がいて、350㌔もの大石を一人で背負って運んで、奉行に褒められたが、作兵衛は褒められて感激のあまり、その場で卒倒し絶命したという。  これも山上の城ゆえの困難にまつわる話である。その山上の城ゆえの美しさが、いま人々を引きつけている。 (「昇龍道」取材班)

《16》郡上八幡(上)

日本の原型残る「郡上おどり」  長良川鉄道沿線の観光地として近年ますます人気を集めているのが、水と盆踊りの町、郡上八幡(岐阜県)だ。長良川の支流・吉田川が街中を流れる山間の盆地にある城下町である。水と「郡上おどり」に引かれ、外国人観光客も急増していて、駅から乗ったタクシーの運転手は昨年でも10カ国ほどの外国人を乗せたと言う。  日本三大盆踊りの一つに数えられる「郡上おどり」は、7月の中旬から9月上旬まで約2カ月の間、延べ三十数夜にわたって繰り広げられる一大イベント。平成8年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。中でも旧盆の8月13日から16 日にかけての4日間は、夜を徹して踊り明かし、最高潮を迎える。  夕刻、吉田川沿いの民宿に到着。宿のおかみさんに今夜のおどりの会場を尋ねると、「城山公園です。ちょっと遠いですけど」と言いながら、地図で行き方を教えてくれた。    通常、市街の中心部で行われるが、この日は町を見下ろす郡上八幡城へ上る途中の公園が会場だった。すっかり暗くなった坂道に差し掛かると、浴衣姿の人たちがどんどん上っていくので、その後に付いて会場の公園に辿たどり着いた。    広場の真ん中に屋台がある。テントのコーナーも設けられ、保存会の人たちがグッズの販売なども行っている。ラジオ体操のようにカードにハンコを押 してもらっているので何かと聞くと、おどりに来た人に押しており、皆勤した人には記念品が贈られるのだという。おどりの推奨、保存のための工夫である。  午後8時、屋台のお囃はやし子が鳴りだした。いよいよおどりの始まりだ。  ~郡上の八幡出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼる  あそんでんせぇ~    郡上節の中でも最もポピュラーな「かわさき」の出だしだ。初めて聞いたが、何とも言えない懐かしさを覚える。遠い先祖たちの記憶が甦よみがえるのだろうか。  郡上おどりは、もちろん地元の人たちが支えているが、参加は自由。ひとたびおどりの輪に加われば誰にでも簡単に踊れるような振り付けが特徴だ。  踊り手は、それこそ老若男女、高齢の人も多いし、若い人も多い、そして子供たちも。おどりの輪の中には、観光客風の人も多く、夕暮れ町を歩いていた外国人観光客の姿もあった。    ゆったりしたものから始まり、「春駒」など徐々にテンポの速いものに替わっていく。踊り手も次第に増えてゆき熱を帯びてくる。みな無心におどりを楽しんでいる。    おどりはまだ続いていたが、明日の取材もあるので9時を過ぎて、宿に戻ることにした。郡上節が遠ざかってゆくのを聞きながら坂道を下った。坂道を歩きながら、こんな山間の小さな盆地に、日本の原型を思わせる文化が洗練された形で息づいていることが、何か奇跡のように思えてくるのだった。    (「昇龍道」取材班)

出しジュレのしゃきしゃきそうめん

【材 料】 < 2 人分 調理時間:20 分> そうめん・・・・・・・・2 束 キュウリ・・・・・・・・2 本 みょうが・・・・・・・・1 本 オクラ・・・・・・・・・2 本 大葉・・・・・・・・・・2 枚 キムチ・・・・・・・・・80 g

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