渋沢栄一の夢

青年期から社会福祉に意欲

実業家の福祉活動というと、経営の一線を退いてから、私財を投じて行うことが多いのですが、渋沢栄一は第一国立銀行を設立した直後の明治7年から、多忙な仕事と並行して福祉に関わりました。そのきっかけは同年、大久保一翁東京府知事の要請で東京会議所(後の商工会議所)会頭に就任したことです。明治3年、ロシア皇太子の来日に際し、市内のホームレスは恥さらしだと収容所を設けて収容されました。それが会議所の管轄になって東京養育院と命名され、会頭が院長を兼ねることになっていたのです。栄一はその運営を「一身上からは不利であるが、社会のためと思い進んでお引き受け」しました。

第一国立銀行を創設

 明治政府に出仕した渋沢栄一は、民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、経済の基礎となる度量衡の制定や国立銀行条例の制定に携わります。明治4年に民部省は大蔵省に統合され、大蔵大丞になった栄一は大蔵大輔の井上馨と連携して紙幣の発行に取り組みます。

誰もが国のため、皆のために

明治元年暮れ、3年ぶり横浜に帰った渋沢栄一は、まさに“今浦島”でした。渡仏の折の壮大な見送りに比べ、少人数での寂しい出迎え、江戸は東京と名前を変え、将軍徳川慶喜は静岡に引きこもっていたのですから。

日本人の生活に利他の教え

渋沢は日本型資本主義の倫理を儒教に求めていますが、歴史的には仏教の影響が大きいと言えます。インドで生まれ中国を経て日本に渡来した仏教は、自分の悟りよりも人々の救済を求める大乗仏教で、〝利他主義〞〝布施〞の思想が日本人に広がりました。

役人と民間人が対等な社会を

渋沢栄一がフランスで最も感銘したのは、発達した産業社会の事物ではなく、社会における人間関係、とりわけ官と民との関係です。『青淵回顧録』には次のように述べています。

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