人と歴史

【南画家 直原 玉青】絵修業のため黄檗宗の禅僧に

洲本市立淡路文化史料館は江戸時代、徳島藩の御殿があった場所に造られ、史料館前の石垣と堀の一部が往時の面影を残している。同史料館には、国指定無形民俗文化財の淡路人形浄瑠璃やだんじりなどの民俗文化、有史以前の恐竜の化石や縄文時代から弥生時代の資料が展示され、南画の巨匠で幼少年時代を洲本で過ごした直原玉青画伯の記念美術館が併設されている。

鈴木大拙を支えた、実業家「安宅彌吉」

世界的な仏教哲学者の鈴木大拙(1870〜1966)を経済的に支え続けたのが、実業家の安宅彌吉(1873〜1949)だった。2人は共に金沢出身で、彌吉は大拙より3歳年下だが、大拙には力強い外護者でもあった。彌吉没後も遺言のように、安宅産業からの支援は続いた。大拙のために尽くした人たちは多かったが、名声が世に知られてからがほとんどだった。ところが彌吉は、彼らとは別格で20代の無名の頃から大拙を支援し続けてきた。こんなエピソードが伝わる。 2人の親交は上京してから始まり、加賀藩前田家が、県出身の学生のために開いた寄宿舎久徴館の入寮がきっかけだった。彌吉を禅に導いたのは大拙で、共に鎌倉の円覚寺に参禅し、彌吉はその後、関西に拠点を置き、南天棒の元で修行した。

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