人と歴史

【連載企画⑱】岩崎弥太郎との〝死闘〟渋沢栄一と偉人達 ~令和日本への温故知新~

明治11(1878)年8月、新興企業の育成に忙しい日々を過ごしていた渋沢栄一に岩崎弥太郎から招待状が届きました。 指定された向島の料亭に行くと、客は大勢なのか芸者が14~15人も顔をそろえています。 これは岩崎のことだから、何かたくらみがあるな、と栄一が感ずる間もなく、岩崎は栄一を屋形船に誘ったのです。

【連載企画⑰】事実上の主宰者「大頭取」渋沢栄一と偉人達 ~令和日本への温故知新~

渋沢栄一の夢は、あくまでもこの国に合本主義の精神を根付かせることにありました。

【連載企画⑯】「海援隊」と「商法会所」渋沢栄一と偉人達 ~令和日本への温故知新~

渋沢栄一と将軍の座を降りた徳川慶喜との静岡での交流はしばらく続きました。かつてのような主君と家臣(陪臣)という関係ではなく、栄一は、経済人として慶喜が住む静岡の地を豊かにしようとしていました。

【連載企画⑮】最後の将軍、徳川慶喜 渋沢栄一と偉人達 ~令和日本への温故知新~

明治元(1868)年12月下旬、渋沢栄一は徳川慶喜に会うために静岡に向かいました。言うまでもなく、慶喜は謹慎中です。

【連載企画⑭】相次ぐ肉親の死と不幸 渋沢栄一と偉人達 ~令和日本への温故知新~

渋沢栄一は、フランス・パリへ向かう徳川昭武に随行し、最先端の欧州の空気を吸い取り紙のように吸収していました。

【連載企画⑬】武士は食わねど高楊枝 渋沢栄一と偉人達 ~令和日本への温故知新~

渋沢栄一の欧州渡航では、途中で下船し、その町並みなどを見て回っています。 今回は、その時、渋沢が抱いたものは何だったのかを考えたいと思います。

【連載企画⑫】スエズ運河はまだ掘削中 渋沢栄一と偉人達 ~令和日本への温故知新~

平岡円四郎が、水戸藩士らの襲撃で亡くなってから3年ほど経ち渋沢栄一らは、ヨーロッパへと向かう船上の人となっていました。

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