カルチャー

第一国立銀行を創設

 明治政府に出仕した渋沢栄一は、民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、経済の基礎となる度量衡の制定や国立銀行条例の制定に携わります。明治4年に民部省は大蔵省に統合され、大蔵大丞になった栄一は大蔵大輔の井上馨と連携して紙幣の発行に取り組みます。

誰もが国のため、皆のために

明治元年暮れ、3年ぶり横浜に帰った渋沢栄一は、まさに“今浦島”でした。渡仏の折の壮大な見送りに比べ、少人数での寂しい出迎え、江戸は東京と名前を変え、将軍徳川慶喜は静岡に引きこもっていたのですから。

日本人の生活に利他の教え

渋沢は日本型資本主義の倫理を儒教に求めていますが、歴史的には仏教の影響が大きいと言えます。インドで生まれ中国を経て日本に渡来した仏教は、自分の悟りよりも人々の救済を求める大乗仏教で、〝利他主義〞〝布施〞の思想が日本人に広がりました。

役人と民間人が対等な社会を

渋沢栄一がフランスで最も感銘したのは、発達した産業社会の事物ではなく、社会における人間関係、とりわけ官と民との関係です。『青淵回顧録』には次のように述べています。

株式会社と金融を学ぶ

パリ行きが決まると渋沢栄一はまず横浜中華街に行き、中国人のテーラーに洋服を作ってもらいます。フランス料理に挑戦し、食事の作法も習います。フランス滞在中、同行した水戸藩の家臣たちは脂っこい料理に閉口したのですが、渋沢は食欲旺盛でかなり太り、コーヒーも愛飲しています。

徳川慶喜との出会い

尊王攘夷運動に巻き込まれ、幕吏に捕縛されそうになった栄一にとっての幸運は、一橋家に仕官したことです。取り計らったのは一橋慶喜の側近、平岡円四郎でした。しかし平岡はその後、京都で攘夷派に暗殺されてしまいます。

生活実感から自分で考える力備える

栄一が巻き込まれた尊王攘夷は、幕末を席巻したイデオロギー運動でした。  筆者は1967年に大学に入り、翌年、東大入試が紛争のため中止になった時代に、学生運動の拠点だった寮で、しかも三派系全学連の部屋で1年過ごしたので、ある実感を持って語ることができます。

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