カルチャー

道三側に付いて敗戦 越前に逃れ称念寺へ

10日の「麒麟がくる」は前半のクライマックス「長良川の対決」でした。1556年4月に起きた斎藤道三と長男・義龍の合戦です。光秀が道三に付いたのは、「大きな国をつくろう」という道三の考えに共鳴したから。そんなビジョンに欠け、正直でない義龍には「付いていけぬ」と、義龍の誘いを断ります。

鉄砲伝来から鎖国令/「バテレンの世紀」

海外との関係に目を転じると、1543年に中国船に乗った3人のポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えてから、1639年の「鎖国令」の完成までの約1世紀を、イギリスの極東史家チャールズ・ボクサーは「日本におけるキリスト教の世紀」と名付けています。これを「バテレンの世紀」と読んだのが日本近代史家の渡辺京二さんで、同名の著書(新潮社)はこの時代を理解する上での好著です。

信長を二度裏切った 「悪役」松永弾正久秀

将軍足利義輝を暗殺し、織田信長に2度反旗を翻したことから悪役のイメージが強いのですが、ドラマでは光秀を見込んで世話を焼く魅力的な武将に描かれているのが大和国の大名・松永久秀で、松永弾正とも呼ばれます。

代々将軍補佐した管領/盟友となった細川藤孝 光秀がいく15

光秀の盟友となるのが細川藤孝、後の幽斎です。将軍足利義輝・義昭との縁を結び、光秀の活躍を助けます。光秀は三女の玉を嫡男の忠興に嫁がせますが、本能寺の変後、両者は敵対するようになります。幽閉状態になった玉は侍女からキリスト教を教えられ、やがて洗礼を受け細川ガラシャとなります。

本能寺の変の「主因」四国説と讃岐の十河氏

阿波の三好氏の延長で、讃岐の十河氏に寄り道します。なぜなら、2017年、岡山市にある林原美術館で、土佐の長宗我部元親が本能寺の変の前に、織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、光秀が本能寺の変を起こした主因として浮上した四国説に関わっているからです。

阿波から〝天下人〟へ 戦国大名・三好長慶

光秀の時代を彩る一人が、三好政権を樹立した阿波の戦国大名・三好長慶(ながよし)です。 長慶が生まれたのは1552年、平家の落人が住み着いた祖谷渓(いやだに)で知れる今の徳島県西部の三好市。吉野川の上流で、渓流下りが楽しめる大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)などがあります。

若き信長を見る年長者・光秀の視線

戦国時代の尾張・三河・駿河をめぐる争いは2017年の「おんな城主 直虎」でも描かれていました。ドラマの舞台は今の静岡県浜松市北区で、浜名湖の北、奥浜名湖が井伊家発祥の地です。井伊氏は、今川義元が支配する駿河・遠江・三河の三国のうち、遠江の西南端にある狭い地域を今川に仕えて統治する国人領主でした。当時、西の尾張では織田信長が勢力を拡大しつつあり、北の甲斐では武田信玄が戦国最強とされる軍事力を誇っていました。

人気の記事