文化

鈴木大拙を支えた、実業家「安宅彌吉」

世界的な仏教哲学者の鈴木大拙(1870〜1966)を経済的に支え続けたのが、実業家の安宅彌吉(1873〜1949)だった。2人は共に金沢出身で、彌吉は大拙より3歳年下だが、大拙には力強い外護者でもあった。彌吉没後も遺言のように、安宅産業からの支援は続いた。大拙のために尽くした人たちは多かったが、名声が世に知られてからがほとんどだった。ところが彌吉は、彼らとは別格で20代の無名の頃から大拙を支援し続けてきた。こんなエピソードが伝わる。 2人の親交は上京してから始まり、加賀藩前田家が、県出身の学生のために開いた寄宿舎久徴館の入寮がきっかけだった。彌吉を禅に導いたのは大拙で、共に鎌倉の円覚寺に参禅し、彌吉はその後、関西に拠点を置き、南天棒の元で修行した。

《5》人の心の不自由さを知る

第7章「あこがれ」では、主人公・信夫が長い間、母・菊に持っていた恨みが解けるという重要な場面があります。ある朝、熱を出した14歳の信夫は、丸2日、病床に臥します。その時、2日間寝ずに看病したのは菊でした。朦朧とする意識の中、菊がずっとそばにいたことを感じていた信夫は、風邪が治った時、初めて「母の愛」を認めることができました。

《4》人に通じるものは誠の心

供も教えることのできるお坊さんになりたいと答え、重ねて言いました。 「永野は死にたいと思ったことはないか」 吉川の父は酒に酔うとよく母に暴力を振るうといい、かわいそうな母のために、父に暴力を止めてほしいと手紙を書いて死のうと思うことがあると打ち明けました。しかし、足の悪い妹のふじ子のため、死ぬことができないと話します。 「死」がまだよく分からない信夫は、彼を偉いと思うと同時に、母をそこまで思うことができることをうらやましく感じるのでした。

浜松城の隣に「出世神社」

一向一揆を制圧することで三河東部も従え、家康は実質的に三河全体を統治する戦国大名になります。  その後、29歳の時に遠江国の浜松城を修復し、17年間城主として三河・遠江・駿河を領有する大大名に出世します。  浜松城の前身は15世紀ごろに築城された曳馬城で、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。

家臣団が分裂した三河一向一揆

豊臣秀吉が家康に対し、天下の宝といわれるものの大半を集めたのを自慢して、家康の宝は何かと聞いた時、家康が 「家臣が最高の宝」で「貧しい田舎武士の集まりだが、私のために命を捨ててくれる武将が500騎いる」と答えたのは有名な話です。  それほど家臣団の結束を誇った家康ですが、その家臣団が分裂してしまったのが20歳すぎで直面した一向一揆でした。

《3》〝約束〟という言葉の重み

第3章「母」では、祖母トセの四十九日の法要も済んだある夜、父・貞行は一人の女性を家に連れて帰ってくる場面から始まります。美しい目をした女性は主人公・信夫を見るなり、「信夫さん!」と肩をかき抱きますが、狼狽えた信夫は女性の胸を突いて、「だれ!この人は」と叫びます。これが信夫と〝産みの母〟である菊との再会でした。

《2》無自覚の差別意識を払拭

明治10年の2月に永野信夫は東京の本郷で生まれた。 「お前はほんとうに顔かたちばかりか、気性までおかあさんにそっくりですよ」 祖母のトセがこういう時はきげんの悪い時である。  これは、小説『塩狩峠』第1章「鏡」の冒頭の一節です。

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