文化

外国人客に参拝の手ほどき

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《29》 金沢「御朱印ツアー」  金沢を訪れる外国人観光客に神社など参拝の作法を知ってもらい、日本の文化や風習に理解を深めてもらおうと、金沢星稜大学女子短期大学部の学生5人が「おもてなし小娘」を結成し、「金沢の神社にて御朱印集めツアー」を企画。このほど、兼六園(国特別名勝)周辺に鎮座する四つの神社を参拝した。    企画したのは経営実務科2年次生のHさんで、学業の傍ら、昨年春から金澤神社で巫女のアルバイトをしている。北陸新幹線の開通で参拝に訪れる外国人が増えたが、案内するうちに手水の仕方や二拝二拍手一拝など参拝の作法が分からず、戸惑っていることに気付いた。神社には英語の表記もなく、このままではいけないと感じ、ゼミで異文化交流を学ぶ4人の友人たちに企画を持ち掛けて始めた。     金沢駅やゲストハウス、フェイスブックで発信したところ、フランス人やドイツ人、イギリス人、インド人、ベトナム人など14人が応募。20代から30代後半の男性6人女性8人が集い、金澤神社と尾山神社、石浦神社、護国神社を巡った。活動は今年度の大学コンソーシアム石川の「学生による海外誘客チャレンジ事業」に採択され、「おもてなし小娘」としてスタートすることができた。  「最初はスタンプラリーのようなもので、神社に行ってスタンプを押すだけと考えていましたが、参拝した証として戴くものと分かり、気持ちの持ち方がとても大切だと気付きました」「記念にもなるし、後で神社のことを思い出すことができます」と振り返っている。同世代の間では「御朱印」が京都を中心にブームになっており、着物姿で散策しながら集めるのが魅力とのこと。  参拝した外国人も、御朱印を手にすると感動。その場で一枚一枚が毛筆で丁寧に手書きされ、手渡しまで少し時間がかかるが、それでも彼らは喜びを隠さない。金澤神社の御朱印には文字の上に金箔がポイントされ、高級感たっぷりだ。    外国人からは「これまで日本の神社をたくさん訪れたが、しきたりを知ったのは今回が初めてでとても嬉しかった」(オランダ人)、「主催者と宮司さんの双方から神道の概念について多くを学ぶことができた。日本文化と伝統を知る晴らしい経験でした。別のツアーも企画して欲しい」(インド人)などが寄せられた。また、「英語を話すのは難しいと思うが、恥しがらずにもっと使って欲しい」など激励の声も。    ツアーを振り返った「おもてなし小娘」たちは、前田利家公を祀る尾山神社で「あの像は誰か」とか、ちょうど七五三のシーズンで「その意味を聞かれた」などを出し合い、「基本的な知識を説明できるように準備しておくことが大切ですね」と貴重な体験を話し合っていた。(写真はすべて「おもてなし小娘」提供) (「昇龍道」取材班)

道元禅師が開いた修行道場

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《28》  福井県永平寺町で、荘厳な伽藍(がらん)を構える曹洞宗の大本山・永平寺を訪ねた。拝観したのは今月初旬の週末で、好天に恵まれ多くの参拝者で賑わっていた。欧米の人たちも見掛けたが、旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で二つ星の評価がついているからだろう。ちなみに二つ星は「寄り道する価値がある」観光地だそうだ。    参道を歩くと、樹齢700年とも言われる杉の巨木が生い茂り、凛とした空気に包まれ、自然と厳かな気持ちになる。まず吉祥閣に入った。ここは一般参禅者の坐禅や写経体験の研修道場だ。入り口の常香炉で煙を浴びて身を清め、受け付けを済ませて参拝の諸注意を受けた。身心を整えて左側通行で静かにお参りする、雲水(修行僧)に直接カメラを向けない、フラッシュは禁止、建物の外には出ないなど指示された。    永平寺は周知の通り、道元禅師(1200~1253)によって開かれた坐禅修行の道場で、四方を山に囲まれた深山幽谷の地にあり、大小70余りのお堂と楼閣が並んでいる。広さは約33万平方メートルと東京ドーム7個分に当たり、今日まで770年余の時を刻んでいる。修行に欠かせない「七堂(しちどう)伽藍」は回廊で結ばれ、廊下、階段は毎朝、雲水によってぴかぴかに磨き 上げられており、気持ち良い。  必見は吉祥閣2階の「傘松閣(さんしょうかく)」で、別名「絵天井の間」と呼ばれる。天井には昭和5(1930)年創建当時の代表的な日本画家144人が描いた230点の絵がはめ込まれている。ほとんど花鳥の色彩画で、ミニチュアサイズの絵が天井の各場所と作家の名前入りで壁面に展示されている。絵の中に鯉、唐獅子、栗鼠(りす)が描かれた5枚の絵が隠されており、それを探し出すと願いが叶うとあって、年配のご婦人方が“絵探し”を楽しんでいた。    順路に従って拝観していくと、雲水の修行の場である僧堂、浴室、東司(とうす)と並ぶ。東司とはトイレのことだ。これらは「三黙(さんもく)道場」と呼ばれ、私語は一斉厳禁。永平寺は365日の生活すべてが修行とされ、雲水に与えられるのは一畳ほどのスペースだけ。そこで坐禅や食事・就寝など日々の修行に励む。その生活は鳴らし物で始まり、朝3時半の起床は振鈴(しんれい)という鈴の音で、食事は大きな魚鼓(ぎょく)が打ち鳴らされる。現在、160人を超す雲水が修行中だ。    一通り拝観を終えて「ひといき坐禅」の部屋に入った。ここでは身近に坐禅体験できる。丸い坐蒲(ざふ)がきちんと並べられ、20 人ほど座れる。足と手を指示された通りに組み真似た。雑念を一切捨て去り、ただ ひたすら坐禅を組み、修行する只管打坐(しかんたざ)には程遠いが、日本文化に大きな影響を与えた禅の教えの源流に、わずかでも触れることができたように感じた。 (「昇龍道」取材班)

日本一深いV字峡谷を走る

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《27》 黒部峡谷鉄道  「日本一深いV字峡谷」と呼ばれる富山県の黒部峡谷鉄道に乗った。“トロッコ電車”の愛称でも親しまれている。客車の中には窓がなく、開放感たっぷりの車両もあるからだ。紅葉シーズン真っ只中とあって、始発の宇奈月駅は午前中の便はほぼ満杯の盛況だった。ここから終点の欅平駅(標高599メートル)まで、20・1㎞を約1時間20分かけてゆっくりと登っていく。    昭和2年(1927年)、黒部川上流にダムを建設するため、機材や資材の運搬、作業員の輸送のために切り拓かれた。その後、登山者らの要望もあって旅客の輸送が始まった。あまりに険しい秘境故に、当初の乗車券には、「生命の保証をしない」と書かれていたという。乗車してみて、それが決して大袈裟ではなく、今も迫力満点の路線だと分かった。    眼下に色づき始めたブナ林と黒部川のエメラルド色の急流に臨んでいたかと思えば、次の瞬間、いきなりトンネルに入る。中は掘削したむき出しの岩肌が目の前に連続し、おまけにレールの軋(きし)む音が半端ではない。その繰り返しだった。    トンネルの中は涼しさを通り越して肌寒いほど。防寒具は必携だ。少し割高だが、窓付きの車両も牽引しているので、事前に確認した方が良い。難所だけあって切り立った絶壁が連続する。見どころはそのつど車内アナウンスされる。ナレーションを務めているのは、地元出身の女優室井滋さん。親しみやすく軽妙な語りが好評とのこと。  記者が訪れた日は絶好の紅葉狩り日和となった。平日だったこともあって、日本人の年配客が多かった。ご多分に漏れず、ここでも中国系の観光客が目に付いた。前の座席にカナダ人夫婦が座っていたので聞くと、知人からLIN E(ライン)で勧められたという。「すごい所だね」と驚きながら、動画撮影に余念がなかった。  途中、室井さんから「猿橋」の案内があった。ダムが建設された後、サルが対岸に渡れるよう吊橋をそのまま残したという。サル専用なので手すりが不要、橋だけが宙にぶら下がっている。「運が良ければ群れで渡る様子が見える」とのアナウンスで期待したが、残念ながらお目にかかれなかった。     欅平駅に降り立つ。峡谷に立つ2階建ての駅舎で、レストランや土産売り場がある。5分ほど下ると、峡谷一の絶景スポット「奥鐘橋」が朱色の姿を見せている。高さ34メートルあり、その先には「人喰岩」が遊歩道に覆いかぶさっている。白馬鑓ヶ岳や唐松岳など北アルプスの山々を目指す登山者は、ここが拠点だ。黒部ダムにも険しい道が通じている。    駅前で10年余りボランティアガイドを務めている金子啓子さん(68)によれば、近年アジア系のみならず、欧米からの観光客も増えているとのこと。「音声翻訳アプリを使えば英語だけでなく独語や仏語、イタリア語、スペイン語などいろいろな言葉でコミュニケーションできます。海外の人たちと話し合えるのが生き甲斐です」とはつらつと語っていた。 (「昇龍道」取材班)

紅葉とエメラルドの湖

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《26》 立山黒部アルペンルート  紅葉真っ盛りの立山黒部アルペンルートに上った。10月中旬だった。当日は雲一つない晴天で、美女平駅(標高980㍍)から室堂(標高2450㍍)を結ぶ高原バスに揺られながら車窓を見ていると、運転手が「少しは雲が出ていないと絵(写真)になりませんね。2日前はガスがかかって、何も見えませんでした」と満員の乗客を笑わせた。山の天候は日によって、また時間によっても変わりやすいが、この日は終日、天候は安定していた。    同ルートは、標高3千メートル級の山々が連なる北アルプスを貫く世界でも有数の山岳観光ルートで、富山県立山町の「立山駅」から長野県大町市の「扇沢駅」まで総延長37・2Km、最高地点2450メートルをケーブルカーとロープウエー、トロリーバスを乗り継いで巡る。気軽に雄大な自然や絶景が楽しめるとあって、国の内外から年間100万人余りの観光客が押し寄せる人気の山岳観光ルートだ。当日は晴天を狙ったかのように大挙して人が詰め掛け、立山駅は都会の朝並みのラッシュで、臨時便が出るほど盛況だった。    高原バスは美女平から室堂まで、標高差1500メートルを50分ほどかけてウネウネと上がっていく。途中、天狗平(2300メートル)から、富山平野と富山湾、さらに能登半島が微(かす)かに遠望でき、心が躍った。西の空には加賀の白山も望むことができ、何か得をしたような思いになった。    終点の室堂に着くと、剣岳や立山が青空を背景にそびえ立ち、手が届きそうなほどはっきりとその雄姿を見せていた。山肌は黄銅色に紅葉しているが、ガイド曰いわく「今年は10月になっても暑さが続いたため紅葉は、いまひとつです」と。毎年見ていればそうかもしれないが、初見者にはすべてが絶景に映 る。  室堂近くでヘリコプターが止まっていた。山小屋に食料品や機材を運んでいるという。かつては人が背負って山小屋まで運んでいた。付近は春先の同ルート開通直後には、高さ10メートルを超える雪の壁「雪の大谷」が連なるが、今は全く消えている。    室堂から立山山頂の真下を潜ぐり抜け、同ルート最大の見どころの大観峰に出た。身の竦(すく)むほどの断崖絶壁にあり、遥か下方にエメラルド色に輝く黒部湖が見える。その背後には後立山連峰が迫っている。    ここから黒部平まで、ロープウエーで7分ほどかけて500メートルを一気に降りる。途中、景観保護のため支柱が一本も無いので、何も視界を遮らない。足元に紅葉の斜面が広がり、黒部平に降り立つと乗客は一斉にシャッターを切っていた。振り向けば大観峰が小さく見える。    さらに、ケーブルカーで黒部湖へ降りる。日本で唯一、全線地下式なので、まるで洞穴に落ちていきそうだ。黒部ダムはアーチ型の堰堤(えんてい)が高さ186メートルと日本一を誇り、長さは492メートルもある。ゆっくり歩くと15分ほどかかり、改めて黒部ダムの大きさを体感する。観光放水を間近に見る観覧ステージに立つと、毎秒10トン以上の水が霧状に吹き出し、迫力満点だ。同ルートの紅葉は、美女平付近だと11月中旬まで楽しめる。 「昇龍道」取材班

塩硝、養蚕、和紙が生活の糧

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《25》 五箇山  岐阜県白川郷と並び、世界遺産の合掌造り集落・富山県五箇山を訪ねた。菅沼と相倉(あいのくら)の二つの集落から成り、知名度は白川郷ほどではないが、観光地化されていないのが魅力。周囲を険しい山々に囲まれ、秘境という言葉がしっくりくる。藩政時代の生活の糧は養蚕、塩硝(えんしょう)、和紙漉(す)きで、それぞれの施設を見学できる。    まず、菅沼集落を散策した。庄川の谷あいに舌のようにせり出した河岸段丘にあり、背後の急斜面はブナやトチ、ミズナラの雪持林(ゆきもつりん)になっている。集落を雪崩から守る林で、古くから伐採が厳しく禁じられてきた。ここに9軒の合掌造り家屋が残っている。    「塩硝の館」と「五箇山民俗館」を訪ねると、両施設とも合掌造り家屋を公開して展示している。塩硝は火薬の原料で、加賀藩前田家が流刑地だったこの地で密造してきた。薄暗い表戸を入りスリッパに履き替えて、道具や材料を展示している部屋を順に見て回った。材料は麻畑の水気のない土に蚕の糞、たばこがらなどを仕込んで土作りし、4年間寝かせる。できた塩硝は木箱に入れて人足が背負い、険しい尾根を幾重も越えて金沢まで運んだ。その様子がジオラマで再現され、道程の厳しさがよく分かる。    一方、民俗館では生活用具約200点を収集・展示している。使い古された竹細工などを見ると、雪深い山村の暮らしにいにしえの知恵と技術が息づいていたことが連想される。その中に、祭りで使う楽器のササラが置いてあった。両手にとって“シャッシャッ”と鳴らしていると、若いカップルが入ってきた。男性がやりたそうだったので手渡すと、童心に帰ったように鳴らしてご満悦だった。上海から来たという。    奥座敷には祭礼に使う輪島塗の朱塗りのご膳が並んでいた。受付の年配の女性に聞くと、年に1度、秋の報恩講で今も使っているという。ご膳は能登半島の先端・輪島から120㌔余りも離れたこんな僻地まで運ばれていた。その販売網の広さに驚かされる。彼らは定期的にやって来て傷んだ箇所を修理していった。今見ても新品のようにきれいだった。    続いて国道156号を富山方面に15分ほどバスに揺られ、相倉集落に向かった。こちらは山の中腹に20軒が散在している。民宿「勇介」に入った。今も1組限定で民宿を続けているとのこと。2階と3階には養蚕業を営んでいた往時を再現し、蚕の育つ様子や糸引きなどの工程を模型で分かりやすく解説している。    囲炉裏の傍に展示された1枚の写真が目に留まった。天皇陛下が皇太子の頃訪問された折の写真で、珍しい浴衣姿で学友とくつろがれている。女将さんによると、この時は村長宅に宿泊され、夕方学友と一緒に足を運ばれ談笑されたという。  近くには「五箇山和紙漉き体験館」もあり、A3サイズの和紙やハガキを漉くことができる。五箇山集落へは北陸新幹線の新高岡駅から世界遺産バスが1日5往復運行しており、利用しやすい。 (「昇龍道」取材班)

白川郷 黄金色とのコントラストが絶妙

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《24》  合掌造りの里・白川郷(岐阜県白川村荻町)は評判通り、内外の観光客であふれていた。庄川河川敷の村営せせらぎ公園駐車場と対岸の合掌集落を結ぶコンクリート製のつり橋「であい橋」は、中部国際空港から直行の観光バスが到着するたびに、台湾や中国など中華圏からの観光客が降り立ち、立ち往生することもしばしば。3日間の「昇龍道フリーバスきっぷ」で飛騨高山と白川郷を巡り、最終日には金沢や富山に向かう。    観光地特有の喧噪を離れて、集落を見下ろす荻町城跡の展望台を目指した。村内からシャトルバスが20分ごとに出ており、10分ほどで着く。片道200円。そこに上がると、眼下に合掌造りの民家が箱庭のように広がっている。    記者が訪れたのは9月20日で、この時はまだ稲刈り前の田も残り、合掌造りと黄金色のコントラストが絶妙だった。日本人スタッフが流暢な中国語で、手際よく撮影ポイントをガイドしている。帰りは風景を愛でながら、急な坂道を徒歩で降りて白川郷で最も大きい和田家(国重文)を目指した。    この荻町集落には100軒を超える合掌造りの家屋が立ち並び、いずれも住民の生活空間でもあることから、私有地への立ち入りを禁止する貼り紙が目立つ。民宿の軒下には真新しい薪が高く積み上げられ、縁側には客用の布団が天日干しされ、冬支度が始まっていた。村落は欧米の熟年カップルやリュックを背負った海外の若者グループも散策し、国際色豊かだ。    和田家は築300年ほどで、藩政期は名主や番所役人を務めた。養蚕を生 業とし、黒色火薬も製造していたという。五箇山(富山県)の合掌集落とともに、加賀藩前田家お抱えで、煙硝が密造されていた。「加賀の塩硝は日本一良質」との評判で、貴重な収入源でもあった。幕府の目を逃れ、人里離れてたどり着くのも厳しい村は、密造にはうってつけだった。  同家は現在も住居として使われており、1階の一部と2階部分が公開されている。1階には居間、寝室、客室、仏間など8部屋あり、仏壇には「如来恩講」の文字が見える。この地域は代々真宗の信仰が受け継がれてきた。居間の中央には囲炉裏があり、年中炭火を絶やさないという。その上には、熱を拡散させて部屋を暖める火棚がぶら下がり、そのまま屋根裏も暖める仕組みだ。    屋根裏には居間の隣に設けられた急な階段を上がる。そこには合掌造りの屋台骨がむき出しで、構造がよく分る。又首(さす)と呼ばれる2本の丸太を棟で交差させ、梁両端に差し込んでいる。どれも黒光りして艶があり、ここで営まれてきた暮らしの重みを伝えている。 (「昇龍道」取材班)

飛騨高山(下)

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《23》 街角にも匠の技の伝統  高山(岐阜県)を訪ねるなら、日本三大美祭の一つ、春か秋の高山祭の時がいい。しかし実際は、なかなかそうもいかない。そういう人のためではないけれど、櫻山八幡宮の境内にある高山祭屋台会館に足を運べば常時、屋台が展示してある。    その屋台会館を目指して宮川沿いの道を行くと、ちょうど朝市をやっていた。小ナスなどさまざまな土地のものが売られているが、山国だけあって、珍しい山菜や漬物などバラエティーに富んでいる。    高山祭の屋台は、その豪華絢爛さから、「動く陽明門」と称される。春には12台、秋には11台が引き揃えられるが、屋台会館には、4台展示されている。確かに豪華なものだが、それだけにやはり祭りの賑わいの中で、この屋台が動いているのを見たいと思う。     高山祭の見どころの一つにからくり人形がある。屋台会館のすぐ近くに、「飛騨高山獅子会館からくりミュージアム」があり、屋台からくりや座敷からくりの実演を見ることができる。入場者が集まってきたところで、実演が始まった。  最初は、「恵比寿文字書き」。やおら動きだした恵比寿様が筆を持って、紙に「福」という字を書き上げた。縁起のいい字を選んで墨書された書はお客さんにプレゼントされる。次に「茶運び人形」「大黒様の獅子舞」「角兵衛獅子」「牛若丸と弁慶」のからくり人形のパフォーマンスが続いた。    からくり人形の動きや原理は素朴なものだが、人々を驚かせ喜ばせたいという匠の心は、ロボット時代を迎えた今も、モノづくりの原点にあるように思われた。同ミュージアムでは、重要有形民俗文化財の獅子頭など300点も展 示している。  豪華な屋台やからくり技術の背景には、「飛騨の匠」と呼ばれた技術集団の伝統がある。山国で木の豊富な飛騨では、木工が発達し、奈良時代には、古来の高い建築技術を都の造営に活用するため、朝廷から木工職人の派遣を義務付けられた。その高い技術集団は「飛騨の匠」と呼ばれ、飛騨国はその見返りとして庸・調の税を免ぜられた。    そんな飛騨の匠のことを思いながら、町を歩いていると、普通の民家でも軒の垂木などに工夫が見られ、こんな所にも匠の伝統が生きているのかと感心させられる。  そのうち街中の小さな公園に来ると、翼を拡げた鶴に乗り木槌と鑿(のみ)を手にした人物の像があった。下の台座に「飛騨匠 韓志和(木鶴大明神)」とあり、彫刻の名手で、平安時代初期に、自作の木鶴に乗り唐土(中国)へ渡り皇帝に入神の妙技を見せたといわれる伝説上の人物と説明が書かれていた。伝説とはいえ、飛騨と大陸の繋つながりを暗示しているように思われた。 (「昇龍道」取材班)

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