【連載企画⑮】最後の将軍、徳川慶喜 渋沢栄一と偉人達 ~令和日本への温故知新~

明治元(1868)年12月下旬、渋沢栄一は徳川慶喜に会うために静岡に向かいました。言うまでもなく、慶喜は謹慎中です。

栄一はきちんとした性格の通り、徳川昭武の旅費など一切を明細書にまとめ、残額の約2万両に、ふだん使用した茶碗や茶托の数量まできちんと書類にまとめた会計報告書を静岡にある水戸藩勘定組の窓口に届けたあと、宝台院という寺に向かいました。

宝台院というのは荒れ果てた粗末な古寺で、栄一が通された部屋も侘しくて寒々としていました。行燈が薄暗い明かりを洩らすその部屋で待っていると、襖があいて人影が現れました。

ところが、自分を案内に来た慶喜の側近ではなく、何と慶喜その人だったのです。

栄一は思わず畳に平伏し、涙があふれて止まらなくなりました。声を詰まらせながら挨拶を済ませると、どうしても慶喜に会ったら聞いてみようと思っていたことが口をついて出てきました。

鳥羽伏見の戦いのことでした。

栄一は疑問でした。何ゆえに慶喜は大政奉還などしたのか。そして、政権を返上したにもかかわらず、慶喜は鳥羽伏見で戦端を開いてしまったのか。このことは、どうしても理解ができなかったのです。

「何とかほかに手の打ちようがなかったのでしょうか」

渋沢栄一の銅像
渋沢栄一の銅像

栄一の率直な質問に対し、慶喜は静かに口を開きました。

「いまさら過ぎ去ったことをとやかく申しても詮方ないことだ。今日は民部のパリ滞在中の様子を報せに参ったのではないのか」

慶喜の落ち着き払った声が凛と耳に響きました。

その声に、さすがの栄一も驚き、このときの疑問は後々までもシコリとなって残ったのです。

後年、栄一が25年という歳月をかけて『徳川慶喜公伝』をつくったのは、このときの疑問に自分なりの答えを与え、慶喜の人間像を世間に対して正しく知らしめることでした。

それにもう一つ、昭武から託された「手紙」を慶喜に渡し、慶喜からの返事を水戸の昭武に持ち帰る役目が栄一にあったのです。

栄一は慶喜に謁見したあと、静岡藩の役所で何日か待ちましたが、慶喜からの返書は届きませんでした。

栄一が不審に思って側近に尋ねますと、慶喜公の御辺書は別の使者が届けるので、栄一はこのまま静岡にとどまり、御沙汰を待つようにとのことでした。

これには、さすがの栄一もむかっ腹を立てました。だが数日後、その謎が解け自分の不明を恥じたのです。

つまり、慶喜の真意はこうだったのです。

「もしも、栄一が水戸に返事を持って行けば、民部(徳川昭武)は洋行以来栄一に全幅の信頼を寄せているから、手元に置いて重用するだろう。ところが、水戸藩は昔から党派性が強く猜疑心も極めて強い土地柄だから、栄一が重用されればされるだけ、仲間たちの恨みを買うに違いない。場合によっては一命に関わる事態になるかもしれぬ……だから、栄一はこのまま当地に止めておけ……」
(フリーライター・木島次郎)

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