家族をも操る脱会屋の手口、拷問まがいの体罰も

この記事は2009(平成21)年、サンデー世界日報9月6日号に掲載された内容です。今回、後藤氏の事件にスポットが当たったことを機に、過去に起きた12年5カ月の監禁事件がどのような状況だったか、改めて読者にも知ってもらうべきとサンデー編集部で判断し、内容を抜粋して再掲載することに致しました。

◆「犯罪」黙認の牧師

拉致された後藤さんが監禁されたのは、新潟市内の見知らぬマンションの6階だった。激しく抗議する後藤さんに対し、全く聞く耳を持たない家族。部屋の窓には内側から特殊な鍵が付けられ、玄関ドアは、内側からも施錠できるタイプのものだった。

外に出ることは不可能な部屋で、兄はこう言い放った。「この問題を解決するまでは、絶対に妥協しないし、この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。おまえもそれは覚悟しておけ」
しばらくして、家族から脱会説得を依頼された新津福音キリスト教会の松永堡智牧師がマンションに来るようになった。「牧師らしく口調はソフトで振る舞いは紳士的。しかし、そこは監禁というおぞましい犯罪行為が行われている場所なんです。本人も知らないはずがない。松永牧師の全く悪びれない態度に嫌悪感と怒りを覚えました」と後藤さん。

◆父親ががんで死亡

信仰を保持したままでは脱出は不可能と考え、偽装脱会を図ることにした。だが、1回目の拉致監禁の際、脱出を図ったこともあり、解放に慎重になったのか、その後2年間、膠着状態が続いた。結局その間、一歩も外に出られず、密室化した部屋の中で息苦しいばかりの生活が続いた。1997年6月には、監視を続けていた父親ががんで亡くなった

東京・保谷市の実家で、周りを大人数に囲まれながら父親の亡骸と対面した後、荻窪駅近くのマンションに連れていかれた。そこに半年ほどいて、その後約10年間過ごすことになる荻窪フラワーホームというマンションの804号室に移り、引き続き監禁された。97年12月のことだった。

じっと耐えて解放の日を待っていたが、信仰を失ったふりをし続けることに我慢できなくなった。事態を打開するため偽装脱会だったことを家族に告げた。

連日、夕方6時ごろになると、元信者を5、6人連れた「職業的脱会屋」と呼ばれる宮村峻・会社社長が後藤さんと対面し、教会や教理批判を繰り返した。「自分の頭で考えられるようになるまでは、ここから出られないぞ」「もし自分の子供が統一教会をやめなければ、家に座敷牢を作って死ぬまで閉じ込めておく」と。その一方で、元信者の一人が「後藤さん、あなた、とんでもないことをしてきたんだよ」とぽろぽろ涙を流して、泣き落とすように訴え掛けてくる。

「そんなこと言われても……」と、困惑しながら返答すると、今度は「何言ってるのよ」と、一転、すごい剣幕で出されていた緑茶を顔面に浴びせ掛けられたりした。

後藤氏が監禁された東京・荻窪のマンション8階の間取り。赤い丸が後藤氏で、青い丸は監視していた家族=6日開催された特別緊急シンポジウムのYOUTUBE公開動画より
後藤氏が監禁された東京・荻窪のマンション8階の間取り。赤い丸が後藤氏で、青い丸は監視していた家族=6日開催された特別緊急シンポジウムのYOUTUBE公開動画より

◆話し合う環境なし

「教団組織の中にいたのでは、自分で冷静に考えて抜け出すことはできない。だから自分の頭で考えることができるように、統一教会を検証できる場をつくってあげている」「マインドコントロールされているあなたをカルト教団から緊急避難的に保護している」

こうした拉致監禁の実行者たちの主張に対し、後藤さんは「家族や元信者の言うことは、ハンで押したようにパターン化し、彼らこそ誰かにマインドコントロールされていると感じました」と当時を振り返りつつ、こう反論したという。

「話し合いなら大いにしましょう。しかし、拉致監禁は犯罪で、重大な人権侵害だ。ここは話し合いや検証する場ではない。あなた方が『保護』という名の下に、強制的に信仰を奪おうとしていることは火を見るより明らかだ。ここは自由と民主の社会なのだ」

すでに、後藤さんは40歳近くになっていた。新潟のマンションに監禁されたのが95年9月、31歳の時。それから10年近くがたっており、「自分は世の中から取り残され、将来どうなってしまうのか」と、不安と焦燥感に襲われた。

40歳を迎えた2004年4月、思い切って21日間の断食を決行した。その時、兄嫁からは「まだ分からないの!」と、狂ったように張り手が再三飛んできた。「目を覚ましなさい!」と叫び、ボウルの中の氷水を背中に一気に流し込まれたりした。

◆30日間のハンスト

05年4月に再度ハンストを行い、3回目となった翌年4月のハンストは30日間にわたった。それに対し家族は断食後、食事を出さない制裁に出た。兄嫁は「死ぬ気でやってんでしょ、死ぬまでやれば」とののしった。

後藤さんは本当に死のうかと思ったが、「ここで死んだら、家族のためにもならない」と思い直し、頼み込んで食事を求めた。だが、出てきた食事はその後、約70日間、少々の重湯と1日1㍑のスポーツ飲料だけだったという。

冬の夕刻だった。家族に「ここで検証する(反省して信仰を棄てる)気はないのか」と迫られた。後藤さんは「何で監禁されて検証しないといけないのか、検証する場じゃないでしょう」と気丈に言い返した。

すると、家族から「即刻出て行け」と外に放り出され、拉致時に履いていた革靴を投げ付けられた。08年の2月10日、着の身着のままの一文無し、断食後の食事制裁のため栄養失調状態(解放後の診断)だった。だが、それは12年ぶりに自由意思で外を歩いた瞬間だった。

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