江戸時代に船で遭難し、図らずも初めて帝政ロシアへ渡り帰国した日本人と言えば、大黒屋光太夫。1992年に緒形拳主演で映画化された井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』で有名になったが、彼が三重県鈴鹿市の出身であることは案外知られていないのではないだろうか。
近鉄伊勢若松駅から徒歩約15分、伊勢湾西岸から程近くにある大黒屋光太夫記念館には、光太夫のロシアでの経験、その数奇な生涯を紹介する品々が展示されている。

現在の鈴鹿市白子の廻船問屋(船で荷物を運ぶ商人)に雇われた船頭の光太夫は天明2年12月(1783年1月)、江戸へ向かう途中、駿河沖付近で暴風に遭い航路を外れた。乗っていた神昌丸は長さ30㍍、幅8㍍、帆を広げると25㍍、小学校の体育館くらいの大きさという大型船。7カ月あまり漂流した末、アリューシャン列島の一つアムチトカ島へ漂着する。先住民や毛皮収穫のために滞在していたロシア人らと共に暮らすうち、光太夫らはロシア語を習得。4年後に島を脱出し、カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して89年、イルクーツクで日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会う。
91年にキリルに伴われサンクトペテルブルクへ。キリルらの尽力でエカチェリーナ2世との謁見が叶い、帰国を許された。ロシアは光太夫たちを帰国させることで、日本との通商を交渉しようとしていた。
神昌丸で出航した17人のうち、12人がすでに死亡、2人は正教に改宗してイルクーツクに残ったため、帰国の途についたのは光太夫ら3人だけだった。

92年、3人はキリルの次男である遣日使節アダム・ラクスマンに伴われ、根室へ上陸。最初の漂流から10年近くが過ぎていた。江戸幕府は前例のない事態に大混乱。蝦夷地を管轄していた松前藩を通じた交渉に時間がかかり、一行は根室で越冬を余儀なくされる。ここで1人亡くなり、残る2人が江戸へ送られた。翌年9月になっていた。
光太夫は鎖国体制にあった江戸幕府にとって、ロシア語を解す貴重な存在となった。光太夫は幕府に、ロシアの進出に伴う北方情勢の緊迫を伝え、幕府も樺太や千島列島に対して防衛意識を強めた。蘭学者の桂川甫周は、光太夫の知識をもとに『北槎聞略』を著している。記念館には、光太夫がキリル文字で書いた直筆の掛け軸や扇面なども展示されている。
鈴鹿市若松東には、光太夫が遭難した際に死亡したと思い込んだ荷主が建立した供養碑があり、自由に見学できる。周辺には他にも光太夫ゆかりの地が残され、歩いてみる価値があるだろう。
今こそ、日露関係を考えるに当たって、光太夫の生涯を見直してもいいのではないか。(辻本奈緒子)