カルチャー

父から商売を、母から思いやりを学ぶ

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、渋沢栄一の青年時代が中心になるようです。『論語と算盤』に代表されるように、倫理に基づく資本主義の仕組みを、農民の栄一がどうして理解し、明治の日本で実現することができたのかが大きなテーマになります。

ガラシャ通じ現代へ 「40」の数字の不思議

1698年、ウィーンのイエズス会教育施設で音楽つきラテン語劇「強き女……またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が初演されました。グラツィアとは細川ガラシャのこと。越前で生まれた光秀の三女・玉で、殉教者としてヨーロッパで有名になります。

亀山城を買った大本 / 弾圧後も整備に尽力

京都府亀岡市も福知山市に劣らず光秀の善政を今に伝えています。天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝の「本能寺の変」に光秀が出陣したのが亀山城(亀岡城とも)です。光秀の丹波統治の拠点だった亀山城は、江戸時代初頭に近世城郭として整備され、大正時代に教派神道の新宗教「大本」(大本教とも)が購入、神殿を築きました。ところが、日本史上最大級の宗教弾圧の「大本事件」で、政府により爆破・破却されます。戦後、城跡は再建され、大本の本部が置かれています。

発展と終焉を伝える 京都の二つの明智藪

京都には「明智藪」と呼ばれる竹藪が二つあります。一つは福知山の由良川の堤で、光秀の治水と城下町整備を称えるもの。もう一つは伏見区小栗栖にある光秀終焉の地で、一般的にはこちらの方がよく知られています。逆臣の最期として、落ち武者狩りの農民に殺されたという、寂しい竹藪がふさわしかったからでしょう。

信長の家臣となり 初の近江一国の主

朝倉義景に仕えた光秀は、義景が足利義昭の上洛を助けることを願いますが、義景にその覇気はなく、見限った光秀は台頭してきた尾張の織田信長にそれを期待します。義昭と信長の仲介役を務めるうち、光秀は次第に「天下布武」を掲げる信長の家臣として活躍するようになります。

「あけっつぁま」と慕い、農民が建てた明智神社

光秀の命日6月13日には毎年、光秀を祀る福井市東大味町の明智神社で法要が営まれています。朝倉家に仕えた数年間、光秀は妻子と東大味町で暮らしていました。集落内の西蓮寺には柴田勝家らが発給した、一向一揆から地域の安全を守る書状「安堵状」が残っており、住民を気遣う光秀が勝家に発給させたと伝わっています。

朝倉氏に仕え将軍接待 義景見限り信長に接近

光秀が称念寺門前に長く暮らしていたことは、時宗僧の「遊行三十一祖京畿御修行記」に書かれています。江戸時代の『明智軍記』には、光秀は寺子屋を開き、称念寺の住職と和歌を詠み、漢詩を作ったとあります。時宗僧は各地を遊行しながら布教していたので、光秀は越前にいながら各地の情報を集められたのです。近くには三国港もあり、京に米などの産物が運ばれていました。時宗は各地の港に広がっていたので、そのネットワークを利用して光秀は活動したのでしょう。

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