文化

情操と教養を育てた禅宗

静岡市清水区興津にある臨済宗妙心寺派の清見寺(せいけんじ)に、竹千代時代の家康が太原雪斎(たいげんせっさい)禅師らから学んだ3畳間があります。禅僧ながら今川家の家臣で、今川義元の軍師として内政・外交・軍事に敏腕を発揮し、今川家の全盛期を築き上げた人です。人質ながら義元の後継者の一人として育てられた竹千代は、当時、最高の教育を受け、そこで培った情操と教養、つまり人間力が家康の人生を支えました。

《1》人間の根幹に問い掛ける名作

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし。  (新約聖書 ヨハネ伝 第十二章 二四節)」  これは作家・三浦綾子の小説『塩狩峠』のエピグラフです。エピグラフとは、「本の巻頭などに付される独立した詩、文。 題辞(日本国語大辞典より)」のことをいいます。

神となって日光から江戸を守る

 東京から北東に約2時間の日光は、日本を代表する観光地として外国人にも人気の世界遺産です。その中心にある日光東照宮は、死後、東照大権現という神になった徳川家康を祭る神社で、家康のお墓は東照宮の本殿の裏にある奥宮にあります。

朝廷と幕府、権威と権力の抗争史

 承久の乱に敗れた朝廷側では、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島に配流され、土御門上皇は討幕計画に反対していながら、自ら望んで土佐国へ流されました。後鳥羽上皇の2人の皇子も但馬国と備前国へ配流され、後鳥羽の同母兄の子が即位し、後堀河天皇となります。上皇方の公家たちは一掃され、内大臣になったのは親幕派の西園寺公経で、以後、朝廷は幕府の意向に沿って運営されるようになります。

義時最大の危機・承久の乱

 源頼朝と北条義時の違いは、頼朝が京育ちで朝廷文化への憧れがあったのに対し、伊豆育ちの義時は坂東武者そのものです。坂東武者たちが頼朝を旗印に平家打倒に立ったのは、朝廷や公家による年貢の取り立てから脱し、京から独立するためでした。

階層を超え浸透した浄土信仰

 平安時代末から鎌倉時代にかけて、貴族や武士から庶民に至るまで、階層を超え広く浸透したのが浄土教です。阿弥陀如来の本願により、念仏(仏をひたすら思う)すれば死後、西方浄土に往生できるという教えで、これを「南無阿弥陀仏」と唱えればよい、と庶民も実践しやすくしたのが法然で、浄土宗を開きました。

鎌倉を臨済禅の町にした北条氏

 鎌倉の中心として源頼朝が創建したのは源氏の氏神・鶴岡八幡宮ですが、歩いてみると鎌倉は禅宗、それも臨済宗の町であることがよく分かります。中でも格式の高い禅寺が五山と呼ばれ、大本山建長寺は鎌倉五山の第一位。建長5年(1253)に鎌倉幕府第5代執権北条時頼が、開山(初代住職)に南宋の禅僧蘭渓道隆を迎えて創建しました。

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