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若き信長を見る年長者・光秀の視線

戦国時代の尾張・三河・駿河をめぐる争いは2017年の「おんな城主 直虎」でも描かれていました。ドラマの舞台は今の静岡県浜松市北区で、浜名湖の北、奥浜名湖が井伊家発祥の地です。井伊氏は、今川義元が支配する駿河・遠江・三河の三国のうち、遠江の西南端にある狭い地域を今川に仕えて統治する国人領主でした。当時、西の尾張では織田信長が勢力を拡大しつつあり、北の甲斐では武田信玄が戦国最強とされる軍事力を誇っていました。

悲運の最期遂げた母お牧の方を偲ぶ

岐阜県恵那市明智町も光秀の生誕地を主張しています。山の上には「明智」ではなく「明知」城跡があり、岐阜県の指定史跡になっていて、本曲くるわ輪・二の曲輪などの遺構もあります。近くには明智氏菩提寺の龍護寺があり、境内には光秀の供養塔も立っています。近くの多羅砦跡には「光秀産湯の井戸」があり、「光秀学問所」跡に建てられたとする天神神社もゆかりの地として伝わっています。

信長を支えた終わりの経済力

3月1日放送の「麒麟がくる」では、斎藤道三の「美濃には港がない…」というせりふが印象的でした。戦国時代は戦争に明け暮れていたように思われますが、鉄製の農機具が普及し、各地で開墾が進んだことから米の生産量が向上しています。それによって交易が活発になり、貨幣経済が全国に及ぶようになったのです。

鉄砲が変えた戦国時代の日本

ドラマでは光秀が鉄砲に興味を持ち、その構造や製法、使い方を学ぶ様子が描かれていました。美濃から越前に逃れ、朝倉義景に仕えるようになった光秀が認められたのも、一向一揆の鎮圧で鉄砲隊を効果的に使ったからだとされています。

美濃を制する者は天下を制する

戦国時代の小説によく出てくる「美濃を制するものは天下を制する」という言葉を語ったのは斎藤道三か織田信長と言われていますが、史料には見当たらないようです。有名になったのは、司馬遼太郎の『国盗り物語』で使われたからで、それなら道三のようですが、彼は美濃を支配する前に息子の義龍に討たれてしまいます。しかし、美濃の戦略的重要さを知っていたのは確かで、その夢は娘の帰蝶が嫁いだ織田信長によって実現されます。

信長討伐に至った恵林寺の焼き討ち

本能寺の変が起きた1582年6月21日の1カ月前、5月27日に、亀山城(亀岡市)から愛宕山(京都市右京区)の愛宕権現に参詣し、参籠した光秀は、同行した家臣や連歌師と連歌を詠み、奉納しています。愛宕大権現は戦の神である愛宕勝軍地蔵を祀まつる神社で、上杉謙信も深く信仰していました。

少年時代から「国盗り」斎藤道三の薫陶受ける

生誕地に加え光秀の父も、明智光綱、光国、光隆、頼明と諸説あり、大河ドラマは光綱説を採用しています。明智氏は清和源氏系の土岐氏の流れで、同氏は南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めた名門で、室町幕府の幕閣として、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3カ国の守護大名になっています。

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