文化

「あけっつぁま」と慕い、農民が建てた明智神社

光秀の命日6月13日には毎年、光秀を祀る福井市東大味町の明智神社で法要が営まれています。朝倉家に仕えた数年間、光秀は妻子と東大味町で暮らしていました。集落内の西蓮寺には柴田勝家らが発給した、一向一揆から地域の安全を守る書状「安堵状」が残っており、住民を気遣う光秀が勝家に発給させたと伝わっています。

朝倉氏に仕え将軍接待 義景見限り信長に接近

光秀が称念寺門前に長く暮らしていたことは、時宗僧の「遊行三十一祖京畿御修行記」に書かれています。江戸時代の『明智軍記』には、光秀は寺子屋を開き、称念寺の住職と和歌を詠み、漢詩を作ったとあります。時宗僧は各地を遊行しながら布教していたので、光秀は越前にいながら各地の情報を集められたのです。近くには三国港もあり、京に米などの産物が運ばれていました。時宗は各地の港に広がっていたので、そのネットワークを利用して光秀は活動したのでしょう。

道三側に付いて敗戦 越前に逃れ称念寺へ

10日の「麒麟がくる」は前半のクライマックス「長良川の対決」でした。1556年4月に起きた斎藤道三と長男・義龍の合戦です。光秀が道三に付いたのは、「大きな国をつくろう」という道三の考えに共鳴したから。そんなビジョンに欠け、正直でない義龍には「付いていけぬ」と、義龍の誘いを断ります。

鉄砲伝来から鎖国令/「バテレンの世紀」

海外との関係に目を転じると、1543年に中国船に乗った3人のポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えてから、1639年の「鎖国令」の完成までの約1世紀を、イギリスの極東史家チャールズ・ボクサーは「日本におけるキリスト教の世紀」と名付けています。これを「バテレンの世紀」と読んだのが日本近代史家の渡辺京二さんで、同名の著書(新潮社)はこの時代を理解する上での好著です。

信長を二度裏切った 「悪役」松永弾正久秀

将軍足利義輝を暗殺し、織田信長に2度反旗を翻したことから悪役のイメージが強いのですが、ドラマでは光秀を見込んで世話を焼く魅力的な武将に描かれているのが大和国の大名・松永久秀で、松永弾正とも呼ばれます。

代々将軍補佐した管領/盟友となった細川藤孝 光秀がいく15

光秀の盟友となるのが細川藤孝、後の幽斎です。将軍足利義輝・義昭との縁を結び、光秀の活躍を助けます。光秀は三女の玉を嫡男の忠興に嫁がせますが、本能寺の変後、両者は敵対するようになります。幽閉状態になった玉は侍女からキリスト教を教えられ、やがて洗礼を受け細川ガラシャとなります。

本能寺の変の「主因」四国説と讃岐の十河氏

阿波の三好氏の延長で、讃岐の十河氏に寄り道します。なぜなら、2017年、岡山市にある林原美術館で、土佐の長宗我部元親が本能寺の変の前に、織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、光秀が本能寺の変を起こした主因として浮上した四国説に関わっているからです。

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