今回は、大橋佐平・新太郎親子が心血を注いだ大橋図書館について触れたいと思います。
明治期に作られた私立の図書館としては最大級の規模を誇った大橋図書館は、明治35(1902)年の開館から大いに歓迎され、閲覧者は1日平均約400人に上りました。
初代石黒忠悳館長による厳正にして周到な経営と、利用者からの寄付を受けて蔵書、資料が年々増加。麹町にあった本館と書庫も狭くなったため、九段坂下の飯田町1丁目に土地を購入しました。
しかし、大正12(1923)年9月1日の関東大震災による火災で、旧来の建物(本館、書庫)は元より、所蔵していた図書8万8千余冊も併せて燃え尽きてしまいました。
ただ、図書館の有価証券や銀行預金約30万円が残存し、新たに金75万円を寄付されたことで、再建することができました。
さて、新太郎の半生で最も尊敬する2人の先輩のうちの1人、大橋図書館長も務めた石黒忠悳子爵についてお話ししたいと思います。ちなみに尊敬する先輩のもう1人は渋沢栄一です。
石黒子爵は佐平と同じ新潟県出身で、大橋親子とは常に良好な関係を築いていました。
博文館発行の各雑誌記者は次々と子爵の邸に出入りし、石黒子爵の談話を聞いては雑誌に掲載しました。挙句、子爵の随筆『况翁閑話』の発刊を願い出て出版したりしたのです。
より子爵との関係が深まったのは、大橋図書館創立の頃でした。
子爵は佐平が公益のために巨額の資金を寄付することを称賛し、寄付の主旨を実行するためには協議にも応じ力を貸すことも快諾しました。
最終的には自らがその財団法人の協議員兼理事となり、館長にも就任しました。
工事半ばにして佐平が死去し、新太郎の代となってからは、子爵は極めて多忙にもかかわらず事業の経営から金銭の出納まで監督経営し、後年には博文館の経営や大橋家の家庭の引き回しまで指導を行いました。これに対し、周りが謝礼をしようとすると、一切これを受け取りませんでした。
子爵について大橋家の人々は「礼をするといっても、一切受け付けないのですが、ただ年末になったら、博文館の『当用日記』を2部もらいたい、と言われるのです」と語っています。
とにかく子爵は、どんなことがあっても謝礼は一切受け取らず、古希や米寿の祝いなども断っていたのです。
新太郎と一門の人たちは、こうした子爵を益々信頼し、子爵が88歳のとき、自伝の出版を思い立ちました。その編輯は坪谷善四郎らが任されますが、予定通りには完成せず、昭和11(1936)年、子爵が92歳のときに、ようやく完成。自ら『石黒忠悳懐旧九十年』と題し、博文館より出版したのです。
そのうち1000部は子爵の石黒家に納付しました。その折、「出版費用をご自身が精算して支払うと言われたため、『私たちの多年の御礼の品として受納して下さい』と申し上げたのですが、老子爵は、私の費用として支払いますと強く拒絶されました」(大橋家の話)。
なお『石黒忠悳懐旧九十年』は後に文部省から優良図書として推薦されました。(次号へ続く)
(フリーライター・木島次郎)