サンデー編集部

若者たちの農業の為に

 農業のイメージを変えるために奔走している青年がいる。養鶏農家のノーマン裕太ウエインさん(30)だ。祖父が1967 年に創業した徳森養鶏場の2代目代表で、沖縄県の中部農業青年クラブ会長を務める。

海から湧き出る90度の源泉

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《34》 「昇龍道」の龍の頭に当たる能登半島最大の出湯・和倉温泉は、七尾湾に沿って加賀屋や多田屋など、老舗の有名旅館が軒を並べている。年間を通して波が穏やかで、対岸には能登島が浮かび、風光明媚なところだ。ここの温泉の特徴は、海底から90度の源泉が湧き出していることで、試しに舐めてみると、とても塩辛い。これが美肌に効果的とされ、女性客に人気が高い。開湯以来1200年の歴史があり、シラサギ伝説を伴っている。平安時代、傷ついた2羽のシラサギが沖合で羽を休める姿を見た漁師が不思議に思い、近づいて温泉を発見したという。  街の中心にある共同浴場の総湯に入った。ガイドブックには明治32(1899)年から続いていると書かれているので、さぞかしひなびた温泉場かと思いきや、外観も浴室もとてもきれいだ。それに天井が高くて広々としており、開放感たっぷり。8年前にリニューアルし、今は7代目とのこと。  入浴料440円を払って入ると、説明書きがあった。90度の高温で湧き出す温泉を熱交換器を使って、加水することなく利用しているという。さらに濾過器を使っているが、毎日閉館時に浴槽のお湯は全て入れ替えているとある。こんな能書きを見ると、ありがたい気持ちになり、透き通ったお湯がさらに気持ち良く感じてしまう。露天風呂や立湯、サウナも備え、無料の休憩室もある。近隣のホテルの宿泊客も利用するというから、それもうなずける。玄関前には足湯もあり、休日には魚介類や農産品の朝市も立ち、午前中は盛況だ。  湯船に浸って心身ともリフレッシュして、温泉街の名所を巡った。総湯から徒歩5分ほどに弁天崎源泉公園がある。ちょうど加賀屋の前だ。ここには豊かな湯量を使った仕掛けが幾つかあって楽しい。まず足湯ならぬ「手湯」。屋根の下に円形の形の石が置いてある。最初は噴水かと思ったが、指を入れると温かい。「手首から先を浸せ」とあるので、その通りやってみると、じわじわと体が温まってきた。「あったかベンチ」も見逃せない。畳2枚ほどの木のベンチで、座るとほんのりと温かさが伝わってくる。ここで読書すると、そのまま眠ってしまいそうだ。足湯・手湯・ベンチとも無料で利用できる。    温泉卵もできる。公園に隣接するロータリー広場には「湧浦乃(わくうらの)湯壺」があり、開湯伝承のシラサギのブロンズ像と記念碑が立っている。2羽の間の湯壺に源泉が流れ落ちる。近くの店で卵を買ってネットに入れてもらい、15分ほどここに浸しておくと温泉卵になっていた。ほんのりと塩味が利き、美味だった。  和倉温泉は古くから輪島や珠洲など奥能登各地に向かう拠点として賑わい、輪島まで車で1時間、珠洲まで1時間20分ほどだ。 (「昇龍道」取材班)

歌通じ日韓の懸け橋に

 日本人と韓国人で構成されるボーカルグループ「A・LA・CARTE(アラカルト)」。日韓の文化交流や和合を目的に、一人ひとりの個性が引き立つようにという意味が込められている。

心身を育む食べ物の力

 “食育スペシャリスト”とは聞き慣れない肩書だが、それもそのはず。中村詩織さんは「誰もやっていないことなので、ゼロからのスタートでした」と振り返る。

洗練されたお茶屋文化伝える(金沢市)

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《33》 ひがし茶屋街  金沢を訪れる国内外の観光客に、兼六園と共に人気が高いのが「ひがし茶屋街」だ。藩政時代から続くお茶屋文化を現代に伝えている。金沢駅からバスで15分ほど、兼六園からだと徒歩で20分の距離にある。弁柄(べんがら)の出格子が美しく、石畳が続く街並みは国の重要伝統的建造物群保存地区で、休日には人波が絶えない。    お茶屋文化を知ろうと「お茶屋美術館」(市指定文化財)に入った。メイン通りから1本入った裏通りにある。屋号「中や」のロゴの入った暖簾(のれん)をくぐり、受付で入館料500円を払う。昼間だというのに中は薄暗く、艶やかで独特の雰囲気を伝えている。    1階のガラス張りのケースには、芸妓(げいぎ)が髪に挿したかんざしやくし、結髪用のこうがいなどが展示されている。金銀やサンゴで細工され、一見して値の張る品々と分かる。狭くて急な階段を上がると、10畳の広間、5畳の離れなどがそのまま保存されている。お茶屋は遊芸のための場なので、押し入れや間仕切り壁などはない。    ここの「離れ」は必見だ。目の覚めるような鮮やかな群青色の壁で、他の地域では見られない金沢独特の壁という。北陸新幹線のグリーン車にもこの群青色が取り入れられている。一説では、金沢人がこんな派手な色を好むのは、雪が多くどんよりとした日が多いので、せめて内部を華やかにしたいとの表れという。1階に降りて中庭をのぞくと、水琴窟(すいきんくつ)が金属音を奏で、見上げると紅葉が枝に数枚残っていた。    この茶屋街は文政3(1820)年、加賀藩が近辺に点在していたお茶屋をこの一画に集めて町割りしたもので、それがそのまま現在に残っている。メイン通りに出て、「志摩」(国指定重要文化財)に入った。当時から続く唯一のお茶屋で、間口3間(約5・4㍍)、奥行き10間(約18㍍)と細長い。    中に入って驚いた。台所の脇に井戸があり、その手前には石室(いしむろ)がしつらえてある。説明書きには食物を保存した貯蔵庫とある。金沢では夏に氷室開きがあり、冬に積もった雪を氷室に保存して奉納する神事があるが、お茶屋だけにそれが行われていたのかと聞くと、単に食べ物を保存しただけとのことだった。    お茶屋は客の求めに応じて、仕出し屋から料理を取り、芸妓を呼び、遊宴を支える。そのため部屋や衣装、髪飾りは最高のものをそろえて客をもてなすのが仕来りになっている。いわば「貸し屋敷」のような役割だった。    「志摩」代表の島謙司さんによれば、「お茶屋はおもてなしの心を尽くして客をもてなします。客も同じく、もてなしの心に応えます」と話し、その上で「一見さんお断り」の理由について、「もてなす客が芸やしつらえの価値を理解できるかどうかが大切で、客がそれに応じられないと成り立たない世界なのです」と説明していた。支払いもツケで後日払いは「信頼関係が必須です」とも(市内で開かれた講演より)。こうした両者の絆の上で、お茶屋文化が受け継がれてきた。 (「昇龍道」取材班)

妻は元気で留守がいい

女からの自立で男は伸びる  米の収穫が終わると、麦まきの季節。私の農事組合法人では11月3 日にまき始め、20日すぎに終わりました。天候によっては年末までかかり、1月に持ち越した年もあります。裸麦や大麦を作ったこともありますが、今はうどん用の小麦だけで約18ヘクタール。ブランド化を進めている県や農協から、酒米の増産も要請されています。20年前、先祖伝来の田んぼを守るために集団営農に参加した私も、本業

「本」でご論を深める

「特に若い人には本をたくさん読んでもらいたい」  こう語るのは、北海道教育大学札幌校学校臨床教授の横藤雅人氏(64)。スマホやパソコンの普及で活字離れが進んでいるといわれる中、教師を志す学生に良きアドバイスを送るという意味で大学では定期的にブックトークを開催している。

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