サンデー編集部

郡上八幡(下)

脚光を浴びる「天空の城」  山間の小盆地・郡上八幡に、日本文化の原型ともいうべき郡上おどりが400年にもわたり踊り続けられてきた背景には、郡上藩の後押しがあった。初代藩主、遠藤慶隆は、士農工商の融和を図るために、村々で踊られていた盆踊 りを城下に集め、「盆の4日間は身分の隔てなく無礼講で踊るがよい」と奨励、年ごとに盛んになったという。  藩主の居城、郡上八幡城は、市街から130㍍ほど上った城山にある。天守は昭和8年に再建された模擬天守だが、いまこの城が「天空の城」として脚光を浴びている。「天空の城」と言えば、「東洋のマチュピチュ」竹田城(兵庫県朝来市)が有名だが、郡上八幡城も、雲海の中に浮かぶ城。パンフレットの写真は、霧の中に白亜の天守が浮かび上がり、実に幽玄な趣を漂わせている。  この天空の城を観るための絶好のスポットが、郡上八幡から和田町に抜ける堀越峠。晩秋から冬にかけての、よく晴れた日の早朝がチャンスと言うが、気象条件が揃(そろ)わないと、なかなか見ることはできない。    記者が泊まった民宿からも城山は、すぐ近くに望むことができる。「朝、お城の周りに霧が出ていると、娘と朝食をたべながら、きょう来たお客さんはラッキーだねって言っているんです」とおかみさん。    その郡上八幡城に登った。前の晩、郡上おどりを観た城址公園に着くと、「山内一豊と妻の像」が立っていた。実は初代土佐藩主、山内一豊の賢夫人として知られる千代は、最初に郡上八幡城を築いた遠藤盛数の娘であるという説が有力だ。    ここからさらに、つづら折りの坂道を上って天守に辿たどり着く。展望台から町を見下ろすと、宿のおかみさんが言った通り、町は確かに魚の形をしていた。尾の向こうに見えるのは、東海北陸自動車道だ。    天守閣前の庭に、人柱となった「およし」を祀まつる小さなお堂があった。急斜面の工事が困難なのをみて、神路村の百姓吉兵衛の美しい一人娘およしが、城を守ろうと身を捧(ささげ)て人柱になり、地中に入った。その時、およしは数え17歳だったという。この話は、宿のおかみさんが学校で習った話として教えてくれた。    天守の上り口には、「赤髭作兵衛の力石」もある。城の改修の際、ひときわ力持ちとして知られる作兵衛という人夫がいて、350㌔もの大石を一人で背負って運んで、奉行に褒められたが、作兵衛は褒められて感激のあまり、その場で卒倒し絶命したという。  これも山上の城ゆえの困難にまつわる話である。その山上の城ゆえの美しさが、いま人々を引きつけている。 (「昇龍道」取材班)

《16》郡上八幡(上)

日本の原型残る「郡上おどり」  長良川鉄道沿線の観光地として近年ますます人気を集めているのが、水と盆踊りの町、郡上八幡(岐阜県)だ。長良川の支流・吉田川が街中を流れる山間の盆地にある城下町である。水と「郡上おどり」に引かれ、外国人観光客も急増していて、駅から乗ったタクシーの運転手は昨年でも10カ国ほどの外国人を乗せたと言う。  日本三大盆踊りの一つに数えられる「郡上おどり」は、7月の中旬から9月上旬まで約2カ月の間、延べ三十数夜にわたって繰り広げられる一大イベント。平成8年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。中でも旧盆の8月13日から16 日にかけての4日間は、夜を徹して踊り明かし、最高潮を迎える。  夕刻、吉田川沿いの民宿に到着。宿のおかみさんに今夜のおどりの会場を尋ねると、「城山公園です。ちょっと遠いですけど」と言いながら、地図で行き方を教えてくれた。    通常、市街の中心部で行われるが、この日は町を見下ろす郡上八幡城へ上る途中の公園が会場だった。すっかり暗くなった坂道に差し掛かると、浴衣姿の人たちがどんどん上っていくので、その後に付いて会場の公園に辿たどり着いた。    広場の真ん中に屋台がある。テントのコーナーも設けられ、保存会の人たちがグッズの販売なども行っている。ラジオ体操のようにカードにハンコを押 してもらっているので何かと聞くと、おどりに来た人に押しており、皆勤した人には記念品が贈られるのだという。おどりの推奨、保存のための工夫である。  午後8時、屋台のお囃はやし子が鳴りだした。いよいよおどりの始まりだ。  ~郡上の八幡出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼる  あそんでんせぇ~    郡上節の中でも最もポピュラーな「かわさき」の出だしだ。初めて聞いたが、何とも言えない懐かしさを覚える。遠い先祖たちの記憶が甦よみがえるのだろうか。  郡上おどりは、もちろん地元の人たちが支えているが、参加は自由。ひとたびおどりの輪に加われば誰にでも簡単に踊れるような振り付けが特徴だ。  踊り手は、それこそ老若男女、高齢の人も多いし、若い人も多い、そして子供たちも。おどりの輪の中には、観光客風の人も多く、夕暮れ町を歩いていた外国人観光客の姿もあった。    ゆったりしたものから始まり、「春駒」など徐々にテンポの速いものに替わっていく。踊り手も次第に増えてゆき熱を帯びてくる。みな無心におどりを楽しんでいる。    おどりはまだ続いていたが、明日の取材もあるので9時を過ぎて、宿に戻ることにした。郡上節が遠ざかってゆくのを聞きながら坂道を下った。坂道を歩きながら、こんな山間の小さな盆地に、日本の原型を思わせる文化が洗練された形で息づいていることが、何か奇跡のように思えてくるのだった。    (「昇龍道」取材班)

出しジュレのしゃきしゃきそうめん

【材 料】 < 2 人分 調理時間:20 分> そうめん・・・・・・・・2 束 キュウリ・・・・・・・・2 本 みょうが・・・・・・・・1 本 オクラ・・・・・・・・・2 本 大葉・・・・・・・・・・2 枚 キムチ・・・・・・・・・80 g

車いすで富士山登頂へ

レース中に起きた事故で、瀕ひんし死の重傷を負いレーサーとしては再起不能と言われ、一時期は「死」とも向き合う状況にもなった元レーシングドライバーの長屋宏和さん。事故で頸髄損傷四肢麻痺となり車いすの生活を余儀なくされている。車いす用のレインコートを開発し、北京、バンクーバー(冬季)、ロンドンのパラリンピック日本代表選手団に提供したことで注目を集めた。

特攻隊の想いを舞台で

 毎年8月になると日本は鎮魂の月を迎え、先の大戦で亡くなった人たちに思いを馳(は)せる。その時期に合わせて上演されてきた、日本や家族のために特攻隊員として散った若者たちを題材にした舞台作品「流れる雲よ」が今年、米国で公演される。

暑い夏を乗り切る健康管理

温度差、食事、睡眠、水分補給に注意を  連日「真夏日」の記録が出ていますが、まだまだこれから暑い日が続くことが予測されています。熱中症や冷房病、脱水など健康管理に十分気を付けながら暑い夏を無理なく元気に乗り越えましょう。(看護師・岡本澄美子)

《15》美濃市

~長良川の恵み和紙と「うだつ」~  刀剣と鵜飼の町、関から長良川鉄道に乗って北へ10分ほどで、和紙と「うだつ」の町、美濃市に着く。古い街並みが残る中心部はそう広くないので、駅でレンタサイクルを借りた。    初めて乗る電動自転車にやや戸惑いながらも駅でもらった観光マップを観 ながら行くと、市観光の拠点、観光協会番屋に着く。その通りに「目の字通り」と呼ばれる、「うだつの上がる街並み」が続いている。街並みは「伝統的建造物群保存地区」に選定されている。  「うだつ」とは、屋根の両端にある防火壁のこと。火事の多かった江戸時代、町を守るために設けられたが、「うだつ」を上げるには、いっぱしの店を構えなければならない。ぱっとしないことを「うだつの上がらない」というのはここからきている。    うだつはその家ごとにさまざまなスタイルがあるが、江戸時代から続く酒屋、小坂家のうだつは国の重要文化財に指定されている。美濃市で最も古いうだつを上げているのが、旧今井家。江戸末期から続いた和紙問屋で、中に入って見学することができる(有料)。玄関の帳場から、豪商時代の繁栄をうかがわせる奥座敷へと続くが、自慢は中庭の「水琴窟」。地中に小さな穴を開けた甕 かめを逆さにして埋め、上に丸石を置く。水をこぼすと、穴から落ちた水が甕の中で反響し、琴のような涼やかな音がする仕掛けだ。環境庁の「日本 の音100選」にも選ばれている。柄杓(ひしゃく)で水をこぼすと、本当に涼しげな音が響いてきた。  目字通りには、和紙の店が多い。この美濃和紙を現代アートで盛り上げようと、毎年秋に催されているのが、「美濃和紙あかりアート展」。第26回となる今年は10月12、13日に開かれる。    旧今井家の近くに「美濃和紙あかりアート館」があり、魚などの具象的なものから抽象的なものまで、さまざまな作品が展示されている。和紙が作る柔らかで深みのある光の芸術だ。和紙の魅力を改めて感じさせてくれる。    美濃市の繁栄の礎は、江戸時代、飛騨3万石を治める金森長近が領主になってから築かれた。長近は、長良川端に上有知川湊(こうづちかわみなと)を開き、番船40艘そうを置き物流拠点とした。長良川端に立つ住吉灯台は、その湊の名残。川湊の灯台としては現存する希な建造物だ。    レンタサイクルをこいで5分ほどで住吉灯台に着いた。高さ8mはあるかと思われる木造の美しい灯台の下には、水量豊かな長良川が、滔々(とうとう)と流れていた。 (「昇龍道」取材班)

人気の記事