光秀がいく

本能寺の変の「主因」四国説と讃岐の十河氏

阿波の三好氏の延長で、讃岐の十河氏に寄り道します。なぜなら、2017年、岡山市にある林原美術館で、土佐の長宗我部元親が本能寺の変の前に、織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、光秀が本能寺の変を起こした主因として浮上した四国説に関わっているからです。

阿波から〝天下人〟へ 戦国大名・三好長慶

光秀の時代を彩る一人が、三好政権を樹立した阿波の戦国大名・三好長慶(ながよし)です。 長慶が生まれたのは1552年、平家の落人が住み着いた祖谷渓(いやだに)で知れる今の徳島県西部の三好市。吉野川の上流で、渓流下りが楽しめる大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)などがあります。

若き信長を見る年長者・光秀の視線

戦国時代の尾張・三河・駿河をめぐる争いは2017年の「おんな城主 直虎」でも描かれていました。ドラマの舞台は今の静岡県浜松市北区で、浜名湖の北、奥浜名湖が井伊家発祥の地です。井伊氏は、今川義元が支配する駿河・遠江・三河の三国のうち、遠江の西南端にある狭い地域を今川に仕えて統治する国人領主でした。当時、西の尾張では織田信長が勢力を拡大しつつあり、北の甲斐では武田信玄が戦国最強とされる軍事力を誇っていました。

悲運の最期遂げた母お牧の方を偲ぶ

岐阜県恵那市明智町も光秀の生誕地を主張しています。山の上には「明智」ではなく「明知」城跡があり、岐阜県の指定史跡になっていて、本曲くるわ輪・二の曲輪などの遺構もあります。近くには明智氏菩提寺の龍護寺があり、境内には光秀の供養塔も立っています。近くの多羅砦跡には「光秀産湯の井戸」があり、「光秀学問所」跡に建てられたとする天神神社もゆかりの地として伝わっています。

信長を支えた終わりの経済力

3月1日放送の「麒麟がくる」では、斎藤道三の「美濃には港がない…」というせりふが印象的でした。戦国時代は戦争に明け暮れていたように思われますが、鉄製の農機具が普及し、各地で開墾が進んだことから米の生産量が向上しています。それによって交易が活発になり、貨幣経済が全国に及ぶようになったのです。

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