天国はいらない、ふるさとがほしい
地域の仲間でつくった里山クラブの、冬の活動の一つが竹やぶの伐採です。25年前、独り暮らしの母が脳内出血で倒れ、在宅介護のため家族でUターンした時、一番驚いたのは、かつて畑だった山裾が、すっかり竹やぶになっていたことです。以来、少しずつ竹を切り始め、今年の冬から地域の有志で取り組んでいます。
農閑期の1月と2月の晴れた日曜日の午前、2時間ほどの作業です。竹は下から20~30センチのところで切り、節の下にドリルで穴を開け、除草剤の原液を注入します。すると数年で地下茎が枯れ、タケノコが生えなくなります。切った竹は、近くで焼却します。4月には田植えが始まるので、この作業は冬に2回です。
3年くらいかけ、コスモスやレンゲをまく畑の周りを畑に戻し、梅や桜、ミカンにレモンなどを植えて、みんなで楽しむ計画です。私の自治体は38世帯。道路脇の草刈りや水路掃除など、里山クラブでの活動が世代を超えた交流の場になっています。
「天国はいらない、ふるさとがほしい」という詩を残したのは、ロシア革命に批判的だった詩人セルゲイ・エセーニン(1895~1925)です。チェルノブイリの原発事故で汚染され、移住を命じられたウクライナのナージャ村に住み続けている少数の人たちが、退去を勧告しに来た人に「なぜ村に住み続けるのか」と聞かれ、エセーニンのその詩を暗唱したそうです。
その詩を教えてくれたのは評論家の松本健一さん(故人)で、これこそパトリオティズム(愛郷心)だと説明し、近代国家の「市民社会」は絵に描いたモチにすぎないと言っていました。私も48歳で故郷に帰り、地域の集団営農に参加しながら、自治会など地域活動を経験し、これこそ自分が求めていた暮らしだと思いました。
全国に広がる限界集落や荒廃した自然を回復させるには、人々の生き方、国の進み方を大きく転換しなければなりません。1年以上続いているコロナ禍も、それを警告しているのではないでしょうか。自然から生まれてきた人間は、自然を離れては生きてはいけないのに、便利さや効率を求める中で、ついそのことを忘れてしまうのです。
集団営農から発展した農事組合法人で作業しているのは、定年後の高齢者ばかり。でも、定年後に地元に仕事があるのはいいことで、次の世代が定年になるまで存続させようと考えています。地域持続型、健康長寿志向の農業です。
地域の自然を相手に作業していると、自由とは周りに自分を拡大していくことだと感じます。個人主義の狭い自分ではなく、開かれた人格です。やってみると、その方が楽しいし、周りも幸福になります。70にして、そんな境地になりました。