カルチャー

株式会社と金融を学ぶ

パリ行きが決まると渋沢栄一はまず横浜中華街に行き、中国人のテーラーに洋服を作ってもらいます。フランス料理に挑戦し、食事の作法も習います。フランス滞在中、同行した水戸藩の家臣たちは脂っこい料理に閉口したのですが、渋沢は食欲旺盛でかなり太り、コーヒーも愛飲しています。

徳川慶喜との出会い

尊王攘夷運動に巻き込まれ、幕吏に捕縛されそうになった栄一にとっての幸運は、一橋家に仕官したことです。取り計らったのは一橋慶喜の側近、平岡円四郎でした。しかし平岡はその後、京都で攘夷派に暗殺されてしまいます。

生活実感から自分で考える力備える

栄一が巻き込まれた尊王攘夷は、幕末を席巻したイデオロギー運動でした。  筆者は1967年に大学に入り、翌年、東大入試が紛争のため中止になった時代に、学生運動の拠点だった寮で、しかも三派系全学連の部屋で1年過ごしたので、ある実感を持って語ることができます。

父から商売を、母から思いやりを学ぶ

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、渋沢栄一の青年時代が中心になるようです。『論語と算盤』に代表されるように、倫理に基づく資本主義の仕組みを、農民の栄一がどうして理解し、明治の日本で実現することができたのかが大きなテーマになります。

ガラシャ通じ現代へ 「40」の数字の不思議

1698年、ウィーンのイエズス会教育施設で音楽つきラテン語劇「強き女……またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が初演されました。グラツィアとは細川ガラシャのこと。越前で生まれた光秀の三女・玉で、殉教者としてヨーロッパで有名になります。

亀山城を買った大本 / 弾圧後も整備に尽力

京都府亀岡市も福知山市に劣らず光秀の善政を今に伝えています。天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝の「本能寺の変」に光秀が出陣したのが亀山城(亀岡城とも)です。光秀の丹波統治の拠点だった亀山城は、江戸時代初頭に近世城郭として整備され、大正時代に教派神道の新宗教「大本」(大本教とも)が購入、神殿を築きました。ところが、日本史上最大級の宗教弾圧の「大本事件」で、政府により爆破・破却されます。戦後、城跡は再建され、大本の本部が置かれています。

発展と終焉を伝える 京都の二つの明智藪

京都には「明智藪」と呼ばれる竹藪が二つあります。一つは福知山の由良川の堤で、光秀の治水と城下町整備を称えるもの。もう一つは伏見区小栗栖にある光秀終焉の地で、一般的にはこちらの方がよく知られています。逆臣の最期として、落ち武者狩りの農民に殺されたという、寂しい竹藪がふさわしかったからでしょう。

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