家康を読む

≪最終回≫死後どんな神になるか

東京から北東に約2時間の日光は、日本を代表する観光地として外国人にも人気の世界遺産です。その中心にある日光東照宮は、死後、東照大権現という神になった徳川家康を祭る神社で、家康は東照宮本殿の裏にある奥宮の墓所に眠っています。

≪11≫生涯唱え続けた「日課念仏」

晩年、家康は「南無阿弥陀仏」を唱えるだけでなく、その6文字を細長い紙に幾つも書き連ねるようになります。つまり「写経」で、その「日課念仏」が全国で数点残されていて、家康の信仰を伝えています。 日課念仏は徳川家の宗教である浄土宗の念仏行で、1日に唱える念仏の回数を定め、日々唱えることです。

《10》禁中並公家諸法度

武家諸法度と共に幕府は元和元年(1615)、朝廷や公家を統制する禁中並公家諸法度を制定しました。禁中は皇族、御法度は法律のこと。朝廷や公家を幕府の支配下に置き、彼らが主体的に動いて力を付けることを防ぐためです。 日本の政治が安定していたのは、歴史的に権威と権力が分離されていたからとされます。

《9》江戸幕府の寺請制度が始まる

私が暮らす香川県さぬき市には四国八十八箇所の86番から88番の霊場(寺)があります。四国遍路が修行僧から庶民の間に広がったのは江戸時代中期で、お遍路さんたちはそれぞれの檀那寺が発行する「捨往来手形」を携えていました。それには、出身地に加えて「万一、途中で病死すれば、その土地の作法によって埋葬してください、連絡は不要」と書かれていました。

《8》キリスト教を「禁教」にした理由

外国との交易に関心のある家康は当初、キリスト教の布教にも寛容でした。征夷大将軍になると、イエズス会などキリスト教勢力と和解し、秀吉が壊した外交関係を修復しようとします。 1609年、フィリピン総督ビベロがメキシコに戻る途中に難破し、上総に漂着したので、スペインとの通好を望む家康は帰国のために帆船を用意しました。ところが1588年、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊をイギリス・オランダ連合軍が撃破し、スペインの覇権が揺らぎ始めます。

《7》戦国日本に押し寄せたキリスト教

最先端の欧州文明を伝える 日本の戦国時代、世界は大航海時代でした。遠洋航海の技術を持つポルトガルとスペインを中心にヨーロッパ諸国がアフリカやアジアに進出し、コショウなどの香辛料の貿易、さらには領土の獲得競争を展開するようになります。 これを支援したのがローマ教皇で、16世紀初頭から宗教改革の嵐にさらされたカトリック教会は、勢いを増すプロテスタントに対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国である両国の航海に宣教師を同乗させ、獲得した領土の住民への布教活動を開始したのです。

幕府の官学に儒学を採用

儒者に転じた藤原惺窩から始まる 長い戦国時代が終わると、武よりも統治の学として文が重要になってきます。中でも、宋の指導理念として盛んだった儒学の一つ朱子学が注目され、その第一人者として諸大名に招かれていたのが藤原惺窩でした。 慶長5(1600)年、学僧との論争のため家康に呼ばれた惺窩は、僧衣を脱ぎ捨て道服姿で現れ、禅僧から儒者に転じたことを天下に公表しました。これが江戸儒学の劇的な始まりです。政治を中心に世俗倫理を説いたのが孔子由来の儒学ですから、悟りを目指す仏教より実務に適していました。

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