鎌倉殿の13人を歩く

朝廷と幕府、権威と権力の抗争史

 承久の乱に敗れた朝廷側では、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島に配流され、土御門上皇は討幕計画に反対していながら、自ら望んで土佐国へ流されました。後鳥羽上皇の2人の皇子も但馬国と備前国へ配流され、後鳥羽の同母兄の子が即位し、後堀河天皇となります。上皇方の公家たちは一掃され、内大臣になったのは親幕派の西園寺公経で、以後、朝廷は幕府の意向に沿って運営されるようになります。

義時最大の危機・承久の乱

 源頼朝と北条義時の違いは、頼朝が京育ちで朝廷文化への憧れがあったのに対し、伊豆育ちの義時は坂東武者そのものです。坂東武者たちが頼朝を旗印に平家打倒に立ったのは、朝廷や公家による年貢の取り立てから脱し、京から独立するためでした。

階層を超え浸透した浄土信仰

 平安時代末から鎌倉時代にかけて、貴族や武士から庶民に至るまで、階層を超え広く浸透したのが浄土教です。阿弥陀如来の本願により、念仏(仏をひたすら思う)すれば死後、西方浄土に往生できるという教えで、これを「南無阿弥陀仏」と唱えればよい、と庶民も実践しやすくしたのが法然で、浄土宗を開きました。

鎌倉を臨済禅の町にした北条氏

 鎌倉の中心として源頼朝が創建したのは源氏の氏神・鶴岡八幡宮ですが、歩いてみると鎌倉は禅宗、それも臨済宗の町であることがよく分かります。中でも格式の高い禅寺が五山と呼ばれ、大本山建長寺は鎌倉五山の第一位。建長5年(1253)に鎌倉幕府第5代執権北条時頼が、開山(初代住職)に南宋の禅僧蘭渓道隆を迎えて創建しました。

武士の倫理綱領を制定

 ついに源頼朝が亡くなりました。暗殺説もある中、三谷幸喜さんがどう表現するのか興味津々でしたが、馬上での意識喪失による落馬となっていました。単なる落馬では武士の恥ですから、突発的な意識喪失だと、衣の肩口に付いた泥から冷静に推察したのが北条義時の息子・泰時であるのも、次の展開の伏線となります。

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