カルチャー

飛騨高山(下)

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《23》 街角にも匠の技の伝統  高山(岐阜県)を訪ねるなら、日本三大美祭の一つ、春か秋の高山祭の時がいい。しかし実際は、なかなかそうもいかない。そういう人のためではないけれど、櫻山八幡宮の境内にある高山祭屋台会館に足を運べば常時、屋台が展示してある。    その屋台会館を目指して宮川沿いの道を行くと、ちょうど朝市をやっていた。小ナスなどさまざまな土地のものが売られているが、山国だけあって、珍しい山菜や漬物などバラエティーに富んでいる。    高山祭の屋台は、その豪華絢爛さから、「動く陽明門」と称される。春には12台、秋には11台が引き揃えられるが、屋台会館には、4台展示されている。確かに豪華なものだが、それだけにやはり祭りの賑わいの中で、この屋台が動いているのを見たいと思う。     高山祭の見どころの一つにからくり人形がある。屋台会館のすぐ近くに、「飛騨高山獅子会館からくりミュージアム」があり、屋台からくりや座敷からくりの実演を見ることができる。入場者が集まってきたところで、実演が始まった。  最初は、「恵比寿文字書き」。やおら動きだした恵比寿様が筆を持って、紙に「福」という字を書き上げた。縁起のいい字を選んで墨書された書はお客さんにプレゼントされる。次に「茶運び人形」「大黒様の獅子舞」「角兵衛獅子」「牛若丸と弁慶」のからくり人形のパフォーマンスが続いた。    からくり人形の動きや原理は素朴なものだが、人々を驚かせ喜ばせたいという匠の心は、ロボット時代を迎えた今も、モノづくりの原点にあるように思われた。同ミュージアムでは、重要有形民俗文化財の獅子頭など300点も展 示している。  豪華な屋台やからくり技術の背景には、「飛騨の匠」と呼ばれた技術集団の伝統がある。山国で木の豊富な飛騨では、木工が発達し、奈良時代には、古来の高い建築技術を都の造営に活用するため、朝廷から木工職人の派遣を義務付けられた。その高い技術集団は「飛騨の匠」と呼ばれ、飛騨国はその見返りとして庸・調の税を免ぜられた。    そんな飛騨の匠のことを思いながら、町を歩いていると、普通の民家でも軒の垂木などに工夫が見られ、こんな所にも匠の伝統が生きているのかと感心させられる。  そのうち街中の小さな公園に来ると、翼を拡げた鶴に乗り木槌と鑿(のみ)を手にした人物の像があった。下の台座に「飛騨匠 韓志和(木鶴大明神)」とあり、彫刻の名手で、平安時代初期に、自作の木鶴に乗り唐土(中国)へ渡り皇帝に入神の妙技を見せたといわれる伝説上の人物と説明が書かれていた。伝説とはいえ、飛騨と大陸の繋つながりを暗示しているように思われた。 (「昇龍道」取材班)

古い町並みのグルメタウン

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《22》 飛騨高山(上)  飛騨の高山といえば、高山祭、「飛騨の小京都」と呼ばれる古い町並み、歴史的には「飛騨の匠(たくみ)」などをまず、思い浮かべる。これらが、高山市の魅力の柱であることは間違いないけれど、初秋のJR高山駅に降り立ち、昼すぎの街の中を歩きながら、まず外国人観光客の多さに驚いた。外国人観光客が増えたのは、2009年に「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で三つ星を獲得したのがきっかけという。    次に幾つものラーメン店の前に行列ができているのを見て、高山が今やグルメタウンになっていることを知った。昔から飛騨牛が知られているが、それに高山ラーメンが加わった。高山ラーメンが有名になったのは、新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』(2016年)に登場したのが一つのきっかけとなった。    駅から古い商家や造り酒屋の並ぶ伝統的建造物保存地区へ続くメインストリートを行く途中、飛騨国分寺をまず訪ねた。国分寺が置かれていたことは、天平の昔から飛騨地方に高い文化があり、ここがその中心であったことを物語っている。    境内には本堂、三重塔のほか戦国期に建てられた鐘楼門が配置され静かな空間をつくっている。外国人観光客もちらほら見える。チリからブラジル人のガールフレンドと来たという男性は、「日本の古い町が好きでやって来た。とても美しい町でみんな親切」と言う。高山観光はユネスコ世界文化遺産の白川郷とセットのケースが多いが、白川郷も行くのかと聞くと、意外にも白川郷を知らなかった。    さて、昼飯はやはり高山ラーメン。インターネットで調べると、市内に幾つもある高山ラーメンの人気店の一つが、ちょうど国分寺の近くにあったので入ってみた。ヨーロッパかららしい旅行客の隣のカウンターに座って食べたが、鶏ガラをベースにした昔の支那そばを思い起こさせる。四方を山々に囲まれた地方都市でこういう懐かしい味に出合うのは不思議な感じがするが、この町の雰囲気にふさわしい味だとも思う。    古い町並みの残る上三之町を歩きだすと、そこでまた行列のできている店に出会った。飛騨牛にぎり寿ずし司の店で、若い人たちが列を成している。翌日、客のすいている時に買って食べたが、感動ものだった。表面を少しあぶったものを握り寿司にしたものだが、肉とは思えない柔らかさ。もし将来、マグロが漁獲禁止となり、トロが食べられなくなったようなとき、そのロスを埋められるのは飛騨牛の握りではないかと、真面目に考えたくらい。    日本にはブランド和牛が幾つもあるが、飛騨牛の特徴は、見た目にはピンクに近い色をしていること。霜降りの細かさからくるものらしい。そして牛肉らしい香りも強いような気がする。いずれにしても握り寿司は、飛騨牛の特徴を生かした料理といえる。    飛騨牛がその代表なのだろうが、高山では食べ物一つにしても、澄んだ空気と清らかな水を感じさせられる。 (「昇龍道」取材班)

下呂温泉

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《21》 林羅山が称えた「日本三名泉」  JR高山本線で岐阜駅から下呂温泉のある下呂駅へ向かった。濃尾平野を北上し、両側に山が迫ってくるあたりから、右手に飛騨川の清冽(せいれつ)な流れが線路に沿うように流れているのが目に入る。    清冽な川水が岩を洗い、両岸から岩が迫る約12Kmの「飛水峡」と呼ばれるあたりは、美しい峡谷美を見せている。こんな本格的峡谷美を車窓から楽しめる路線はざらにはない。翡翠(ひすい)色をした流れは青龍を連想させ、飛騨川こそまさに昇龍道ではないかと思わせる。    昼すぎに下呂駅を降り、温泉に入るには時間が早いので、温泉街から少し離れた高台にある「下呂温泉合掌村」を訪ねた。ここには国の重要有形民俗文化財に指定されている「旧大戸家住宅」をはじめ、白川郷などから移築した10棟の合掌造りの民家で集落が再現されている。  入るとすぐ、大きな合掌造りの家が「しらさぎ座」という芝居小屋になっていた。ここでは下呂温泉の芸妓(げいぎ)さんの舞も演じられる。このほか「円空館」では、江戸時代初期美濃国(現在の岐阜県羽島) に生まれ、全国各地を巡って12万体の神仏像を彫った遊行僧・円空の神仏像が展示されている。円空紹介のパネル展示やビデオもなかなかいい。    温泉街に戻ってから、まず向かったのは、飛騨川の河原にある「噴泉池」。江戸時代の儒学者林羅山が有馬・草津と並ぶ「天下の三名泉」として紹介した下呂温泉のシンボル的な露天風呂だ。川原に温泉が沸き出ているのを、薬師如来が一羽のシラサギに化身して知らせたという伝説が残っている。    この露天風呂は、脱衣所や仕切りもなく、男女混浴で無料で利用できるが、2010年から水着の着用が義務付けられている。地元の人らしい老年の夫婦がゆったりと温泉に浸かっていた。そこから10メートルほどの水際では釣り人が3人鮎釣りをしている。なんとものどかな光景だ。    記者もここで取材の汗を流したいところだったが水着は用意してなかったので、地元の人がよく利用する共同浴場「白鷺の湯」に。林羅山像のある白鷺橋から100メートルほどの所にある。建物の外観はロマネスク風の白い造りでレトロな雰囲気。入り口の横には、足湯「ビーナスの足湯」もある。    入湯料370円を払って浴室に入ると、大きな窓から飛騨川が見下ろせた。浴槽はヒノキ風呂である。下呂温泉を訪れる温泉客は内湯のあるホテルや旅館に泊まる。それが基本だが、地元の人たちに愛される共同浴場もなかなかいいものだ。    白鷺の湯の近くには、「鷺の足湯」「薬師の足湯」などもある、台湾から来たという浴衣姿の若い女性2人が足湯巡りを楽しんでいた。 (「昇龍道」取材班)

妻籠宿

観光立国への新ルート 昇龍道を行く 情緒あふれる「サムライロード」  中山道・馬籠宿の隣にある妻籠(つまご)宿(長野県木曽郡南木曽町)は、歴史的景観を守るべく、全国で初めて古い町並みを保存した宿場町だ。こちらにも多くの外国人が訪れていると聞き、さっそく観光案内所のスタッフに道を尋ねると、「馬籠宿から妻籠宿までは早くて2時間半くらいですね」と言われた。どうやら「歩くこと」が前提らしい。    この地域を訪れる外国人観光客は雨が降ろうと雪が降ろうと構わず歩いていくのだという。彼らは自ら歩く道を「サムライロード」と呼び、江戸時代の人々と同じ道を通ることを楽しんでいる。ただ残念なことに、サムライロードに日本人の姿はあまりないそうだ。    中山道の魅力をより知るためには、やはりここはバスではなく歩かなければなるまい。意を決し朝早く出発。ほとんどは舗装された道路だったが、所々山道に入る所もあった。時々、熊よけの鈴が山中の道端に置いてあり、見つけるたびドキッとさせられる。道の半ばにあった江戸中期の茶屋『一石栃立場茶((いちこくとちたてばちゃや)屋』の中でお茶を一服し、先を目指した。    3時間近くかかってたどり着いた妻籠宿の町並みを眺めると、ノスタルジックな気分がこみ上げてくる。町を歩くと、切支丹禁令や百姓一揆の禁止などが書かれた高札を発見した。江戸時代の情緒が色濃く残され、一瞬タイムスリップしたような気分になる。    妻籠宿本陣と脇本陣は現在、南木曽町博物館になっているので、見学してみることにした。本陣は江戸後期の間取図を元に忠実に復元したもので、島崎藤村の兄でもある広助が最後の当主を務めた。豪壮な姿と共に、藤村関係の資料も展示されている。    国重要文化財でもある脇本陣の方は明治10年に建て替えられたもの。江戸時代、山の木は「木一本首一つ」と言われるほど厳しく管理されていたが、明治になって禁制が解けたため、桧の大木をふんだんに使用している。明治13年の明治天皇巡幸の際も御小休所として利用された建物だ。    脇本陣を見学中、夫婦らしき外国人の観光客がいたので、写真を撮ってもいいか尋ねると、快くOKしてくれた。博物館スタッフが英語で囲炉裏など日本の伝統的な家屋の説明をすると興味津々に聞いていたのが印象的だった。    妻籠宿で民宿をしている人の話によると、宿泊する外国人と日本人の割合は町全体で9対1の割合だという。基本的に欧米豪からの観光客が多いが、最近はシンガポールからやって来る人もいるようだ。 (「昇龍道」取材班)

「夜明け前」舞台の宿場町

観光立国への新ルート 昇龍道を行く《19》馬籠宿 「木曾路はすべて山の中である」  文豪・島崎藤村の名作「夜明け前」冒頭の一節だ。小説の舞台で、藤村のふるさとでもある岐阜県中津川市の馬籠宿は、山々に囲まれた中山道(木曾路)の中途にあり、板橋から数えると43番目の宿場になる。  中山道は江戸時代初期に整備された五街道の一つ。江戸と京都とを結ぶ重要な街道だが、険しい山中の道のりは難所として知られた。そのため、捨てられたり置いて行かれる馬も多かったようで、観光案内所のスタッフによると「それが『馬籠』という名前の由来になったという説もあるくらい」だという。    馬籠宿前のバス停を降りると、目の前に山の尾根に沿うような急斜面の道が続いていた。夏休みの休日ということもあって道行く人は家族連れが目立つが、外国人観光客の姿も多い。江戸時代の情緒を色濃く残す馬籠宿は外国の人々からも好評で、通りにある家や軒先につるされた飾りを珍しげに眺めていた。  石畳を敷き詰めた道沿いには民宿のほか、かき氷などの甘味処やそば屋が並んでいる。暑い日差しが照り付ける中では、頭で考えるより先に足が店先へと向いてしまいそうになる。険しい山道を越えてきた昔の旅人も同じような気持ちになったのだろうかと思う。    旅人だけではなく、かつては諸大名など地位のある人々もこの道を通って行った。幕末の第14代将軍・徳川家茂に嫁いだ和宮もその一人。彼らが泊まる宿は本陣・脇本陣と呼ばれていた。     「馬籠脇本陣史料館」では脇本陣の家に伝わる遺品や古文書などを展示し、過ぎし日の雰囲気を見学者へと伝えている。目玉展示の一つは復元された「上段の間」。朝廷・幕府の高位高官用の部屋で、ほかの部屋より床が一段高く造られている。守りが手薄な北側は敵の襲来を防ぐため、亀甲型の石を積み上げた「玄武石垣」を築くなど、徹底された安全対策が施されているのも特徴だ。  馬籠宿の本陣は藤村の実家で、明治28年の大火によってほとんど焼失してしまい、唯一現存するのは藤村の祖父母の隠居所のみ。藤村は少年時代にここで四書五経を学んでおり、「夜明け前」や童話集にも登場する思い出の場所だ。本陣跡に建てられた「藤村記念館」や記念館近くにある「清水屋資料館」 には、自筆の原稿や手紙などゆかりの品々が数多く展示されている。 (「昇龍道」取材班)

浜名湖

観光立国への新ルート 昇龍道を行く≪18≫ ~東名高速の下くぐる遊覧船~ 「はままつフラワーパーク」を一周するフラワートレイン  静岡県浜松市の観光名所の一つ浜名湖。最大水深は約16m、広さ約65平方㎞と面積では日本で10番目の湖だ。言い伝えによるとその昔、伝説の巨人・ダイダラボッチが転んで地面に大きな手の跡がついた。そこに水が溜た まり、今の浜名湖になったのだという。確かに湖全体を見ると、どことなく手を広げたような形をしている。  湖岸を歩いてみると、思っていたよりも磯の香りが強い。浜名湖が淡水と海水の混じる汽水湖であるためだ。元は淡水湖だったが、1498年の大地震と高潮で海と通じるようになった。スッポンやカキ、トラフグなどが名物で、特に浜名湖のウナギは全国的に有名だ。     歩いていると遊覧船乗り場を見つけたので乗ってみることにした。まだ少し時間に余裕があったので、チケット売り場の男性職員に見どころを尋ねてみると「船で東名高速道路の下をくぐるのは、めったにできない体験ですよ。冬なら渡り鳥もいますし、季節ごとに違う味わいを楽しめます」と教えてくれた。  乗り込んだのは250人乗りの大型船・奥浜名丸。夏休み中とあって船内は子供連れが多く、船が動きだすと子供たちはみな目を輝かせながら窓の外を見詰めていた。展望デッキでは乗船客たちが美しい湖上の風景を楽しんでいた。西行法師が瞑めいそう想にふけったと伝えられる岩を通り過ぎたり、東名高速道路の下をくぐる時などはカメラを構え記念撮影に夢中になっていた。  水上からの眺めの次は、山上からの眺めを楽しむことにした。湖畔にある標高113mの大草山頂上までロープウエーで移動すると、山頂は周囲360度を見渡せる展望台になっていた。徳川家康が居城していた浜松城はもちろん、井伊直虎が出家していた龍潭寺など、浜松市のさまざまな歴史の面影を一望することができる。浜名湖を訪れた人にはぜひ一度見てもらいたい絶景だ。  帰りには湖の近くにある「はままつフラワーパーク」にも寄ってみた。水面に浮かぶハスの花などは見ているだけで心を涼しくさせてくれる。園内を周遊する「フラワートレイン」という乗り物もあるので、夏の暑さを気にせず園内の花を見て回れるのは魅力的だ。春の季節には桜の花を見るため、大勢の外国人が来るらしい。芝生や休憩スペースもあちこちにあるので、昼食を持ち込んでピクニック気分を味わってみるのもいいだろう。 (「昇龍道」取材班)

郡上八幡(下)

脚光を浴びる「天空の城」  山間の小盆地・郡上八幡に、日本文化の原型ともいうべき郡上おどりが400年にもわたり踊り続けられてきた背景には、郡上藩の後押しがあった。初代藩主、遠藤慶隆は、士農工商の融和を図るために、村々で踊られていた盆踊 りを城下に集め、「盆の4日間は身分の隔てなく無礼講で踊るがよい」と奨励、年ごとに盛んになったという。  藩主の居城、郡上八幡城は、市街から130㍍ほど上った城山にある。天守は昭和8年に再建された模擬天守だが、いまこの城が「天空の城」として脚光を浴びている。「天空の城」と言えば、「東洋のマチュピチュ」竹田城(兵庫県朝来市)が有名だが、郡上八幡城も、雲海の中に浮かぶ城。パンフレットの写真は、霧の中に白亜の天守が浮かび上がり、実に幽玄な趣を漂わせている。  この天空の城を観るための絶好のスポットが、郡上八幡から和田町に抜ける堀越峠。晩秋から冬にかけての、よく晴れた日の早朝がチャンスと言うが、気象条件が揃(そろ)わないと、なかなか見ることはできない。    記者が泊まった民宿からも城山は、すぐ近くに望むことができる。「朝、お城の周りに霧が出ていると、娘と朝食をたべながら、きょう来たお客さんはラッキーだねって言っているんです」とおかみさん。    その郡上八幡城に登った。前の晩、郡上おどりを観た城址公園に着くと、「山内一豊と妻の像」が立っていた。実は初代土佐藩主、山内一豊の賢夫人として知られる千代は、最初に郡上八幡城を築いた遠藤盛数の娘であるという説が有力だ。    ここからさらに、つづら折りの坂道を上って天守に辿たどり着く。展望台から町を見下ろすと、宿のおかみさんが言った通り、町は確かに魚の形をしていた。尾の向こうに見えるのは、東海北陸自動車道だ。    天守閣前の庭に、人柱となった「およし」を祀まつる小さなお堂があった。急斜面の工事が困難なのをみて、神路村の百姓吉兵衛の美しい一人娘およしが、城を守ろうと身を捧(ささげ)て人柱になり、地中に入った。その時、およしは数え17歳だったという。この話は、宿のおかみさんが学校で習った話として教えてくれた。    天守の上り口には、「赤髭作兵衛の力石」もある。城の改修の際、ひときわ力持ちとして知られる作兵衛という人夫がいて、350㌔もの大石を一人で背負って運んで、奉行に褒められたが、作兵衛は褒められて感激のあまり、その場で卒倒し絶命したという。  これも山上の城ゆえの困難にまつわる話である。その山上の城ゆえの美しさが、いま人々を引きつけている。 (「昇龍道」取材班)

人気の記事