カルチャー

《16》郡上八幡(上)

日本の原型残る「郡上おどり」  長良川鉄道沿線の観光地として近年ますます人気を集めているのが、水と盆踊りの町、郡上八幡(岐阜県)だ。長良川の支流・吉田川が街中を流れる山間の盆地にある城下町である。水と「郡上おどり」に引かれ、外国人観光客も急増していて、駅から乗ったタクシーの運転手は昨年でも10カ国ほどの外国人を乗せたと言う。  日本三大盆踊りの一つに数えられる「郡上おどり」は、7月の中旬から9月上旬まで約2カ月の間、延べ三十数夜にわたって繰り広げられる一大イベント。平成8年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。中でも旧盆の8月13日から16 日にかけての4日間は、夜を徹して踊り明かし、最高潮を迎える。  夕刻、吉田川沿いの民宿に到着。宿のおかみさんに今夜のおどりの会場を尋ねると、「城山公園です。ちょっと遠いですけど」と言いながら、地図で行き方を教えてくれた。    通常、市街の中心部で行われるが、この日は町を見下ろす郡上八幡城へ上る途中の公園が会場だった。すっかり暗くなった坂道に差し掛かると、浴衣姿の人たちがどんどん上っていくので、その後に付いて会場の公園に辿たどり着いた。    広場の真ん中に屋台がある。テントのコーナーも設けられ、保存会の人たちがグッズの販売なども行っている。ラジオ体操のようにカードにハンコを押 してもらっているので何かと聞くと、おどりに来た人に押しており、皆勤した人には記念品が贈られるのだという。おどりの推奨、保存のための工夫である。  午後8時、屋台のお囃はやし子が鳴りだした。いよいよおどりの始まりだ。  ~郡上の八幡出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼる  あそんでんせぇ~    郡上節の中でも最もポピュラーな「かわさき」の出だしだ。初めて聞いたが、何とも言えない懐かしさを覚える。遠い先祖たちの記憶が甦よみがえるのだろうか。  郡上おどりは、もちろん地元の人たちが支えているが、参加は自由。ひとたびおどりの輪に加われば誰にでも簡単に踊れるような振り付けが特徴だ。  踊り手は、それこそ老若男女、高齢の人も多いし、若い人も多い、そして子供たちも。おどりの輪の中には、観光客風の人も多く、夕暮れ町を歩いていた外国人観光客の姿もあった。    ゆったりしたものから始まり、「春駒」など徐々にテンポの速いものに替わっていく。踊り手も次第に増えてゆき熱を帯びてくる。みな無心におどりを楽しんでいる。    おどりはまだ続いていたが、明日の取材もあるので9時を過ぎて、宿に戻ることにした。郡上節が遠ざかってゆくのを聞きながら坂道を下った。坂道を歩きながら、こんな山間の小さな盆地に、日本の原型を思わせる文化が洗練された形で息づいていることが、何か奇跡のように思えてくるのだった。    (「昇龍道」取材班)

《15》美濃市

~長良川の恵み和紙と「うだつ」~  刀剣と鵜飼の町、関から長良川鉄道に乗って北へ10分ほどで、和紙と「うだつ」の町、美濃市に着く。古い街並みが残る中心部はそう広くないので、駅でレンタサイクルを借りた。    初めて乗る電動自転車にやや戸惑いながらも駅でもらった観光マップを観 ながら行くと、市観光の拠点、観光協会番屋に着く。その通りに「目の字通り」と呼ばれる、「うだつの上がる街並み」が続いている。街並みは「伝統的建造物群保存地区」に選定されている。  「うだつ」とは、屋根の両端にある防火壁のこと。火事の多かった江戸時代、町を守るために設けられたが、「うだつ」を上げるには、いっぱしの店を構えなければならない。ぱっとしないことを「うだつの上がらない」というのはここからきている。    うだつはその家ごとにさまざまなスタイルがあるが、江戸時代から続く酒屋、小坂家のうだつは国の重要文化財に指定されている。美濃市で最も古いうだつを上げているのが、旧今井家。江戸末期から続いた和紙問屋で、中に入って見学することができる(有料)。玄関の帳場から、豪商時代の繁栄をうかがわせる奥座敷へと続くが、自慢は中庭の「水琴窟」。地中に小さな穴を開けた甕 かめを逆さにして埋め、上に丸石を置く。水をこぼすと、穴から落ちた水が甕の中で反響し、琴のような涼やかな音がする仕掛けだ。環境庁の「日本 の音100選」にも選ばれている。柄杓(ひしゃく)で水をこぼすと、本当に涼しげな音が響いてきた。  目字通りには、和紙の店が多い。この美濃和紙を現代アートで盛り上げようと、毎年秋に催されているのが、「美濃和紙あかりアート展」。第26回となる今年は10月12、13日に開かれる。    旧今井家の近くに「美濃和紙あかりアート館」があり、魚などの具象的なものから抽象的なものまで、さまざまな作品が展示されている。和紙が作る柔らかで深みのある光の芸術だ。和紙の魅力を改めて感じさせてくれる。    美濃市の繁栄の礎は、江戸時代、飛騨3万石を治める金森長近が領主になってから築かれた。長近は、長良川端に上有知川湊(こうづちかわみなと)を開き、番船40艘そうを置き物流拠点とした。長良川端に立つ住吉灯台は、その湊の名残。川湊の灯台としては現存する希な建造物だ。    レンタサイクルをこいで5分ほどで住吉灯台に着いた。高さ8mはあるかと思われる木造の美しい灯台の下には、水量豊かな長良川が、滔々(とうとう)と流れていた。 (「昇龍道」取材班)

《14》信州善光寺

秘仏と縁を結ぶたび  JR長野駅発のバスから窓の外に目をやると、石畳の道路や蔵を模した建物など、門前町の長い歴史を感じさせる街並みが続く。    バスが向かう国宝・信州善光寺は「遠くとも一度は詣れ善光寺」と詠われるほど、宗派に関わりなく庶民から愛されてきた寺院。本堂は高さ30m、奥行き54mの壮大な伽藍を誇る。    バスを降りると、平日にも関わらず境内はにぎわっていた。御朱印所の窓口前に並ぶ行列、本堂を背景に撮影する新婚らしきカップル、東南アジアから来たと思われる僧衣の男性など、さまざまな人の姿を見かける。改めて国内外からの人気の高さを感じさせる光景だ。    本堂前にたたずむ山門の壁や柱には、江戸時代などの参詣者たちが書き記した名前や出身地がところ狭しと残されている。実際にお参りした人の名前もあれば、知り合いから「私の名前も書いてきてくれ」と頼まれた名前もあるそうだ。この“落書き”も今では立派な歴史的資料の一つなのだから面白い。    善光寺の歴史は古い。阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩(せいしぼさつ)の三尊からなる本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、『善光寺縁起』によると飛鳥時代、欽明天皇のころに百済から贈られた日本最古の仏像だという。数え年で7年に1度には、本尊を模した国の重要文化財「前立本尊」を公開する「御開帳」が行われている。    直かに拝観することはできない御本尊だが、実はあることをすれば、その秘仏と「結縁」を結べるのだという。本尊を安置した瑠璃壇(るりだん)の下の回廊を進む「お戒壇めぐり」だ。回廊の中ほどにある「極楽の錠前」を見つけて触ると、往生後の極楽浄土行きが約束されるという。ただし、回廊は真っ暗で明かりの類は何もなく、手探りで25~30cmの錠前を探さねばならない。  瑠璃壇の下に続く階段を下りて、「いざ出発!」と意気込んだのはいいが、予想外の暗さに面食らってしまった。壁から手を放してしまうと、距離感も方向感覚も分からず、闇の世界に一人取り残されてしまいそうだ。    何も見えない不安から、だんだん身をかがめて恐る恐る進むようになる。  そして、はっと気付くと出口がすぐ目の前に。どうやら身をかが め過ぎて触り損ねたらしい。いやはや修行不足。それにしても、なぜわざわざ暗闇の中を歩くのだろう。近くにいた善光寺のスタッフに尋ねてみると「暗闇の中で心を静めて心を洗い、そうして仏様に 出会うためです」とのこと。  そういうわけで戒壇めぐりに再びチャレンジするのだった。   (「昇龍道」取材班)

保存に奔走した地域の人々

松本城  曇りの予報だったが見事に外れた。目的地に向かって歩く途中も小雨が止 やむ様子はなく、観光客がいるかどうか不安に駆られた。取りあえず着いてみると、幸いなことに傘を差した外国人の姿がちらほら見受けられた。今回のお目当ては長野県松本市の松本城だ。  ベンチで城を見詰める年配の男性に話し掛けると、得意げに「あれを上から下まで全部、昔の人が自分の手で造ったんだよ」と自慢された。市民から「烏城」の名前で愛される黒い天守閣は、美しく悠然とそびえ立っていた。一面に水をたたえた内堀とその岸沿いに植えられた枝垂れ柳、そして堀の上に架けられた赤い橋・埋橋(うずみばし)とともに眺めると、なんとも言えない趣がある。思わず、戦いのために造られた城であることを忘れてしまうほどだ。    戦国時代に信濃守護だった小笠原氏が拠点となる城を築城した際、その支城として築かれたものの一つが、松本城の前身とされる。分厚い壁や城内から射撃するための「鉄砲狭間ざま(ざま)」など、鉄砲戦への備えが戦国時代へタイムスリップさせる。五重の天守は現存するものの中では最古で、1936年(昭和11年)には国宝に指定された。     中に入ってひときわ目を引くのが、コレクターによって寄贈された141の鉄砲とその関連資料の展示だ。鉄砲の造り方や使用方法のほか、麻糸で複数の弾をつなげた変わり弾など珍しい品々も紹介されており、訪れた外国人や家族連れが熱心に見詰めていた。     天守の最上階に上がると、城の守り神である「二十六夜神」が真上に祀(まつ)られていた。松本城には不思議な伝説が残されている。一人の侍が殿中で宿直をしていたところ、突然美しい姫君が現れ、「26日夜の日に米三石三斗三升三合を炊いて祝うこと。お城は必ず栄えようぞ」と告げて消えた。 侍は家老を通じて藩主に報告し、言われた通りの祭祀(さいし)をすることとなった。その後、城で火事が起きたものの天守は焼け落ちず無事だった。この不思議な姫君のおかげだという。  だが、この城を襲った一番の災難は、武家の時代が終わった明治時代に起きた。廃藩置県後、不要となった城の荒廃が著しく、破壊・売却の危機に陥った。それを憂えた城下町生まれの市川量造は天守と本丸広場を中心とした博覧会を企画し、その収入によって天守を買い戻した。さらに松本中学校の小林有也校長らが1901年(明治34年)に松本天守閣保存会を設立。11年間の歳月をかけて修繕工事を行い、倒壊の危機から救った。城を愛し奔走した市民の努力がなければ、この城は今の姿を保っていたか怪しい。    松本城は幾つもの困難を乗り越え、今も多くの市民にとっての誇りになっている。姫君のご加護もまだ続いているのかもしれない。 (「昇龍道」取材班)

犬山城

~色濃く留める城下町の名残り~  木曽川沿いの小高い丘の上に聳(そび)える「国宝犬山城」は、現存する日本最古の様式の天守閣として知ら れている。名鉄・犬山駅からその姿を望める犬山城まで歩いて向かった。  案内板に従って犬山駅の西口から10分ほど進んでいくと、犬山城が聳える丘まで真っすぐ続く城下町のメインストリート「本町通り」に行き当たる。    それまで所々に城下町らしさの名残が感じられる程度だったのが、本町通りの両側に古風な木造建築を模した多くの土産物屋などが立ち並ぶ光景が目に飛び込んできた。実際に本町通りには、幕末から明治初年に建築された国の登録有形文化財「旧磯部家住宅」など古い町並みの姿も残っている。    犬山の城下町は、中心の町人町の周りを囲むように侍町があり、防衛上の要所に寺院を配置。さらに城下町の周囲に掘や土塁を巡らせた“城と城下町が一体”となった“総構え”の形で築かれた。そんな江戸時代ごろに形成された町割りの形を今も残し、城下町としての名残を色濃く留(とど)めている。    例えば、犬山城が聳える丘の麓にある針綱神社の祭礼「犬山祭」では、今も城下町時代からの町割りでった13町内ごとに「車山(やま)」と呼ばれる縦に細長い作り山車の上で、からくりを使った演目を奉納するのだとか。通りを歩くと、尾張北部の商業・産業の中心地であった犬山の城下町であった頃の人の繋(つなが)りや風習が、今も息づいているように感じられた。     そんな通りを抜けると、正面に遠くに見えていた犬山城が大きく見えてくる。城下町の景観のため犬山城周辺地域の電線を地下に埋めたのも、空が広く見えるのも城を大きく見せるのに一役買っていただろう。    犬山城は天文年間(1532~55年))の初めごろ、織田信長の叔父に当たる織田信康が城下町の南にあった木ノ下城を移して築城したと伝えられている。現存する天守の創建年代は天正(1573~92年))ごろ、慶長(1596~1615年)ごろと諸説あり明らかになっていない。  だが、その古くから続く歴史や伝統が大勢の外国人観光客を引き付けているようだ。犬山城の城門前では多くの外国人たちの姿が見受けられた。    犬山城内の角度が急な階段を上り下りするのは、少し辛(つら)いが最上階からの眺めは絶景。木曽川の方から吹き付ける涼しい風を浴びながら見る、犬山の豊かな自然は、見えた景色の先に足を運ばせたくなる魅力があった。    展望台で擦れ違った外国人のカップルは、この後、自転車(ロードレーサー)を借りて木曽川沿いの遊歩道をサイクリングするのだと話してくれた。

関鍛冶伝承館(関市)

 岐阜県関市は、刀匠の町である。室町時代には刀匠300人を数え、「折れず曲がらずよく切れる」関の刀はその名を全国に知られるようになる。それ以降、優れた実用性を誇る関の刀は、戦国時代、戦場の武士たちに愛用された。有名な「関の孫六」は二代目兼元のこと。  関市の刀鍛冶は、鎌倉時代に刀祖・元重がこの地に移り住んだことに始まる。刀作りが盛んになり名刀が生まれるようになった背景には、良質の焼刃土と炉に使う松炭、良質な水、そして長良川の水運があった。    日本刀作りの伝統を背景に近代に入って刃物産業が盛んになり、世界的な刃物メーカー、フェザーなども生まれる。市内には、、カミソリのテーマパーク「フェザーミュージアム」や「刃物会館」もある。    「関鍛冶伝承館」は、そんな関の刀鍛冶の伝統を知るには絶好の施設。1階には兼元・兼定をはじめとする古今の名刀が展示されている。記者が訪ねた時には、イヤホンガイドを聞きながら熱心に名刀の展示を観みる何人もの外国人の姿が見られた。日本刀に関する基礎知識、刀作りのさまざまな工程などが分かりやすく展示されている。  隣の工房で日本刀の鍛錬の実演が行われると言うので見に行く。実はこれが目当てだったのだが。    白い装束に身を包んだ刀匠が現れ、炉に火が入れられていよいよ 刀鍛冶の実演が始まった。指導役の横座と大槌(おおづち)を打つ先手に分かれて、相槌を打ちながら、真っ赤に熱せられた鋼を打つと火花が散る。それを何度も繰り返す。「折り返し鍛錬」という、強い鋼を作るための最も基礎的な作業である。  それが終わって、刀匠の吉田研さんが、刀作りについて説明をしてくれた。「使う炭は備長炭がいいと思われるかもしれませんが、備長炭は火が回るのに時間がかかり炉の温度を下げてしまうので、松炭を使います」 「日本語には、『焼きを入れる』『とんちんかん』と言う言葉がありますが、『とんちんかん』は、槌を下ろし損ねて変な音が出たことからきています。それくらい刀鍛冶に由来する日本語は多いんです」  なるほど、日本語の中に刀鍛冶に由来する言葉が、こんなに根付いているとは知らなかった。強さと柔軟さと美しさを持つ日本刀、そして刀鍛冶に日本文化の精髄が生きていると実感した。     関鍛冶伝承館での鍛錬の実演は毎月第1日曜の午前10時半からと午後1時半から2回行われる。

篝火の下の幻想ドラマ

木曽川水系の清流、長良川は鵜飼いで有名だ。その「清流長良川の鮎」は平成27年、農業水産技術での指定では全国で初めて世界農業遺産に登録されている。鵜飼いで獲とれた鮎はすぐ鵜が活いけ締めにするので、美味しさはかの北大路魯山人も太鼓判を押している。 長良川の鵜飼いは岐阜市と関市の2カ所で行われている。少し上流にある関市へはJR美濃太田駅から第三セクターの長良川鉄道に乗り換えてゆく。鵜飼い見物の屋形船の出る小瀬の川岸に着くと、鵜匠が鵜を入れた駕籠を担いでやって来て、鵜舟は一足先に上流へ向かった。 午後7時ごろ屋形船も上流へ漕こぎ出す。清流に浮かび、対岸の森の鳥の鳴き声を聞いたり、夕食の弁当をつかったりしながら暗くなるのを待つのである。 鵜飼いは全国12カ所で行われているが、岐阜の長良鵜匠6人と小瀬の3鵜匠は、宮内庁式部職に任命されている。その一人、足立陽一郎鵜匠が鵜飼いについて説明をしてくれた。 「腰こしみの蓑は、鵜に魚を吐かせるときなどに掛かる水しぶきで体が冷 えないようにするために着けています」 「鵜の首を縛るものを首結いといいますが、指1本が通るほどの間隔を開けて結びます。大きな魚は通さず小さな魚はそのまま喉を通って鵜が食べることができるようにしています」 そうするうちに、日はとっぷりと暮れた。上流から篝火を舳先に掲げた鵜舟がゆっくりと下って来た。いよいよ鵜飼いの始まりだ。 篝火と鵜舟の舳先、そして鵜匠と手縄の先にいる鵜だけが闇の中に浮かび上がる。鵜匠は鵜の動きを真剣に見詰め、手縄を捌さばいている。鵜たちは懸命に魚を追っている。闇の一画で幻想的なドラマが演じられている。 そのドラマに心を奪われているうちに、船は、船着き場あたりに戻っていた。足立鵜匠が「シーズンが始まったばかりということで鮎はまだ小さい」とこの日の漁の結果を説明したが、「河かこうぜき口堰ができてから魚が少なくなった」という言葉には、悔しさもにじんでいるようだった。 小瀬鵜飼予約=関遊船:&0575(22)2506 HP・URL= http:www.ozeukai.net (「昇龍道」取材班)

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