文化

《5》人の心の不自由さを知る

第7章「あこがれ」では、主人公・信夫が長い間、母・菊に持っていた恨みが解けるという重要な場面があります。ある朝、熱を出した14歳の信夫は、丸2日、病床に臥します。その時、2日間寝ずに看病したのは菊でした。朦朧とする意識の中、菊がずっとそばにいたことを感じていた信夫は、風邪が治った時、初めて「母の愛」を認めることができました。

《4》人に通じるものは誠の心

供も教えることのできるお坊さんになりたいと答え、重ねて言いました。 「永野は死にたいと思ったことはないか」 吉川の父は酒に酔うとよく母に暴力を振るうといい、かわいそうな母のために、父に暴力を止めてほしいと手紙を書いて死のうと思うことがあると打ち明けました。しかし、足の悪い妹のふじ子のため、死ぬことができないと話します。 「死」がまだよく分からない信夫は、彼を偉いと思うと同時に、母をそこまで思うことができることをうらやましく感じるのでした。

浜松城の隣に「出世神社」

一向一揆を制圧することで三河東部も従え、家康は実質的に三河全体を統治する戦国大名になります。  その後、29歳の時に遠江国の浜松城を修復し、17年間城主として三河・遠江・駿河を領有する大大名に出世します。  浜松城の前身は15世紀ごろに築城された曳馬城で、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。

家臣団が分裂した三河一向一揆

豊臣秀吉が家康に対し、天下の宝といわれるものの大半を集めたのを自慢して、家康の宝は何かと聞いた時、家康が 「家臣が最高の宝」で「貧しい田舎武士の集まりだが、私のために命を捨ててくれる武将が500騎いる」と答えたのは有名な話です。  それほど家臣団の結束を誇った家康ですが、その家臣団が分裂してしまったのが20歳すぎで直面した一向一揆でした。

《3》〝約束〟という言葉の重み

第3章「母」では、祖母トセの四十九日の法要も済んだある夜、父・貞行は一人の女性を家に連れて帰ってくる場面から始まります。美しい目をした女性は主人公・信夫を見るなり、「信夫さん!」と肩をかき抱きますが、狼狽えた信夫は女性の胸を突いて、「だれ!この人は」と叫びます。これが信夫と〝産みの母〟である菊との再会でした。

《2》無自覚の差別意識を払拭

明治10年の2月に永野信夫は東京の本郷で生まれた。 「お前はほんとうに顔かたちばかりか、気性までおかあさんにそっくりですよ」 祖母のトセがこういう時はきげんの悪い時である。  これは、小説『塩狩峠』第1章「鏡」の冒頭の一節です。

情操と教養を育てた禅宗

静岡市清水区興津にある臨済宗妙心寺派の清見寺(せいけんじ)に、竹千代時代の家康が太原雪斎(たいげんせっさい)禅師らから学んだ3畳間があります。禅僧ながら今川家の家臣で、今川義元の軍師として内政・外交・軍事に敏腕を発揮し、今川家の全盛期を築き上げた人です。人質ながら義元の後継者の一人として育てられた竹千代は、当時、最高の教育を受け、そこで培った情操と教養、つまり人間力が家康の人生を支えました。

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